帰宅すると十時頃になっていた。いつもなら一日が始まる時間だが、亮太にとっては昨日の終わりだ。深夜番組の放映時間は二十六時などと表記されることがあるが、まさに三十四時だった。
 しかられるかと思ったが、母親は意外と怒っていなかった。
 留守電に千鶴が「亮太を誘拐しまーす」と吹き込んだからだろうか。あれが「亮太と駆け落ちしまーす」だったら真に受けたかもしれない。

千鶴ちゃんと愛の逃避行をしたんだってね。どうだった?


 母親は興味津々だった。愛の逃避行と称したことを知っているということは千鶴の両親から知らされたんだな。一体どんな回答を期待しているんだろう。

二人で錦帯橋に行っただけだよ。その後、旅館に一泊したけど、何事もなく終わったよ

若い男女が同じ部屋に泊まるなんてね


 そう言ってにやけていた。何を想像しているんだろうか。本当のことを説明しても弁解にしか聞こえないだろうから

実にならない期待や想像は空しいだけだよ

 と言って適当にあしらっておいた。
 母親は息子に彼女が出来ると喜ぶのかもしれないが、娘だったらどう思うのだろう。折坂家では今頃、騒動が巻き起こっているかもしれない。
 それでも騒ぐのが両親だけなら、まだいい。これがまだ高校生だったら学校に連絡が行って吊るし上げられただろう。
 それから寝ることにした。眠かったからだけじゃない。何かを見聞きするのを一時的に中断したかったからだ。昨日眠れなかった分、すぐに眠りに落ちた。
 目が覚めると、三時頃になっていた。昼の間、何時間も眠り続けるなんて夏休みぐらいしかできない。これじゃ時差ぼけになるかもな。
 眠っている間は何かについて考えることはできないが、なぜかその間に考えがまとまっていた。
 平行線は交わらないが、平行でなくても一度交わって離れていく。愛し合っているだけでは同じ道をたどれない。人生はいつも何かを通り過ぎていくのだろう。
 初めは自分の気持ちをすっきりさせるために告白したつもりだった。だけど、気持ちだけは両想いになれた。でも、結ばれる運命にはない。それぞれの人生を歩んでいくしかないのだ。
 こんな時は家にいても仕方ない。こんな時にこそ行く当てはあるのだ。亮太は自転車に乗って走り出した。

 その日の夕方、亮太は波止場に座ってぼんやりと遠くの方を眺めていた。家から近いこの場所は何かに悩んだり心が切なくなったりすると、よく来ていた。都会の喧騒から離れた波止場では波の音が空まで響く。しばらくの間、一人でその場の潮風に浸っていた。
 すると背後に人が近づく気配がした。振り返ると千鶴だった。

家に電話したら散歩に出掛けたって聞いたからね。ここだと思ったわ


 待ち合わせもしていないのに出くわすのは意外なことだが、なぜか亮太にはいつも通りのことのように感じられた。

今は一人で海を眺めたい気分なんだよ

じゃあ私も海を眺めることにするわ


 そう言うと数分間二人は無言のまま海を眺めた。夏色の風が潮の香りを運ぶ。そんな中、千鶴が語り出した。

こってりしぼられたわ。でも、生まれて初めてドラマの世界みたいなことをやって達成感でいっぱいよ。それとも私って現実でも虚構の世界の住人みたいな存在だっけ


 千鶴がそう言っても亮太は答えなかった。

元気がないみたいね。でも、こうしていると元気が出そう。海沿いの町に育った私たちは海を見ると活力がチャージされるわね

活力がチャージされても、もう元に戻らないことも多いよ。人生は無常なんだから


 亮太はしんみりと言った。すると千鶴がその場の空気の色を変えるように切り出した。

私のことはもうふっ切れたの?

太古、生物は海で発生したけど、人類は陸地に上がったんだ。だから僕も新しい人生を探してみるよ

でも、クジラは再び海へと帰って行ったわ。私はそれもありだと思うよ。あんたは東京に行ったけど、ふるさとに帰って来るのもたまにはいいもんでしょ。それは恋も同じ。私への想いも捨てないで欲しいな


 そう言って千鶴は照れたような表情を浮かべた。

まだ結婚する気はないけど、会社勤めなんて性に合わないのよね。いつか風来坊になってこの町を出てやるんだから。そのうち東京にも行ってみたいな

君はもう大人なんだろ。それともまだやり足りないの?

私の根っこは子供の頃から変わらないのよ


 千鶴は語気を強めた。

砂の上に字や絵を書いても、波が打ち寄せると消えてまっさらになるわ。私の心もそれと同じ。子供の頃のピュアなハートのままよ。なんてね。ちょっとナルシスティックだったかな

でも、僕は大人になろうとしているんだ。もうついて行けないかもしれないよ

だったら追いかけるだけよ。その時まで他の彼女を作っちゃだめよ。それとも作っても略奪してやろうかしら

遠距離恋愛でもいいの?

いいの。それが私の素直な気持ちなんだから。それに心はいつも近くにいるんだからね


 千鶴は少し生気を取り戻した亮太に詰め寄ると、こう言い出した。

ねえ……。キスして。だって私のこと忘れられなくなるんでしょ。私の虜にしてあげるわ

また今度にしておくよ。心の準備が出来てからね


 亮太は照れてその場を離れた。

そんな~。今すぐ~


 そんな亮太を追いかける千鶴。夕陽が二つのシルエットを浜辺に浮かべた。

pagetop