その夜、眠れずに夜の深さが増していくのを感じていた。時計の秒針が時を刻む音が静寂を囁いた。
千鶴はお見合いをして、しかも結婚に至る可能性も高いという。多くの人は人生で一度は結婚する。千鶴にもその時が来た。ただ、それだけのことだ。客観的事実にすぎない命題をなぜ問いかけているのだろう。
気分を落ち着かせようとベランダに出ると、熱帯夜の空気が身を包んだ。夜空には満月が浮かんでいた。満月を見ると人が巨大な猿に変身するという漫画もあるが、満月は凡人にすぎない亮太の心にも何かを投げかけた。動き出す心は平静を装えない。亮太の心は何かに抗おうとした。
千鶴の顔を思い浮かべるだけで胸の奥が切なくなるのはなぜだろう。自分の前から千鶴がいなくなるわけじゃないけど、大切な何かを失ってしまうかのような寂寞とした想いを感じた。
同じ時代に生まれた二人がそれぞれの道を歩き出す。それをどうして素直に祝福できないんだろう。同じ空の下で君は今、どんな夢を見て眠っているのだろうか。亮太の心は夜通し切なさに満たされた。

それから二日後、リビングで適当にくつろいでいると、母親がこう言い出した。

明日から夏祭りがあるけど、どうするの?


 それを聞いて亮太は思案した。去年までは達也を含めた友達数人と行くことが多かった。でも、今年はどうしようか。亮太の心にはある迷いがあったが、ある決心をすると達也の家に電話をかけた。
達也の母親が応対したので

千鶴ちゃん、いますか?


 と尋ねた。携帯電話だと相手とダイレクトに通じるが、固定電話だと間に人が介在する。それをもどかしく感じた。

はい、替わったわよ


 まもなく千鶴の声がした。亮太は前置きをせず本題に入った。

明日、いっしょに夏祭りに行かない?

私は暇だけど、達也は行く所があるんだって

いや、千鶴ちゃん一人で来て欲しいんだ

あら、私だけを誘ってくれるの? 珍しいわね

じゃあ明日六時に神社の前で待ってるね

 そう言って電話を切った。電話を切ると自分が大それたことをしたような気がしないでもなかったが、何かをやり遂げたという自信の方が大きかった。その気持ちは自分の中でだんだんとふくらんでいった。
 その夜、明日迎えるイベントに気分が高潮してきた。次第に迷いは晴れ、勇気がわき出してきた。今なら打ち明けられる。そんな予感がした。

そして、翌日の夕方――。
 東京ほど熱気が感じられないこの町も夏祭りを迎えると活気付いたような気になる。世の中、田舎をバカにする人もいるが、今は東京に住んでいる亮太には都会にはない情緒を醸し出しているように感じられた。
神社の前で今日のこれからを想像しながら待っていると、「お待たせー」と声がして千鶴の姿が視界に入って来た。千鶴は浴衣という見慣れない出で立ちだった。

浴衣、似合ってるよ

ふふっ。ほめても何もあげないわよ


 普段、人口が少ないこの町も夏祭りになると、どこからか多くの人が訪れ、通常では見られない表情を見せていた。所狭しと密着する屋台の連なりの中を亮太と千鶴は少し歩いた。
ある屋台の前を通りかかると亮太はこう言い出した。

そうだ。林檎飴、食べない? 僕がおごるからさ

あら、ありがとう


 千鶴は店員から林檎飴を受け取ってなめ始めたが、数分後には別の露店に興味を示し

あ~、金魚すくいだ。六年ぐらいやってないな。亮太、これ持ってて


 と言って亮太に林檎飴を手渡した。そして、目を輝かせてポイを手にした。しかし、乗り気だったわりに一匹も取れずにポイが破れた。

近頃の金魚は知能が高くなったみたいね


 千鶴は少し悔しそうにコメントを残した。
 そして、再び千鶴は林檎飴をなめながら、なぜか陶然としてこう言った。

お祭りに来ると気分がハイになって、普段使わないことにもお金を使っちゃうよね。的屋にはうまい商売だわ

そうかな。僕はお金を使う価値があると思うけど

 そんなことを話していると、花火が上がった。千鶴は「綺麗……」と瞳を潤ませたようだった。花火は一瞬で破裂するのだが、夜空に舞い散る火の粉が余韻を残しているようだった。

場所を変えようか。いっしょに来て欲しい所があるんだ


 亮太はそう言って先に歩き出した。千鶴はその後を着いて行く。これから亮太がどこに向かっているのかを知らないはずだが、それを予知しているような足取りだった。
 二人がたどり着いたのはあの伝説の池だった。そこは神が見守っているように人間の営みから隔絶された聖域のようだった。水面から何かが蒸発しているように見えた。

僕と初めて会った時のこと、まだ覚えてる?

おぼろげながらね。あの時は小さかったのに身長も追い越されちゃったわね


 千鶴はふふっと微笑を浮かべた。

あの時とはやっていることが逆になったね

でも、私は迷子じゃないわよ

もし君が何かで迷っていたら、人生の迷子センターに連れて行ってあげたいね

そこで誰が待ってくれるのよ


 千鶴は大笑いした。それを見て亮太はやっと気運が熟してきたような気がした。

僕は東京に行って一回り成長したつもりだけど、お姉ちゃんは変わらないね。これでやっと君がお姉ちゃんじゃなくなった気がするよ

あら、お姉ちゃんと呼んでくれるの? いつ以来かしらね

十年ぶりだよ。そして、これで最後だ

どうして最後なの?

いつか「姉と慕いたいならお姉ちゃんと呼びなさい」と言ったよね。でも、今はもう姉としては慕いたくないんだ

え……。どういうこと?

そばにいすぎて気付かなかったけど、やっと自分の気持ちに気付いたんだ。僕の素直な気持ちを言うよ。千鶴ちゃん。好きだ。初めて出会った時からいつかこうなる予感がしたよ

あら、そう……


 千鶴はそれっきり絶句した。

やっと言えてすっきりしたよ。でも、僕の気持ちは実らなくてもいいんだ。もし両想いになっても遠距離恋愛になるんだしね。それじゃ君を幸せにできないと思う。僕の気持ちに一区切り付けたかっただけなんだ。だからこの話はこれで終わり。明日からも友達のままでいてよ

あんたもそんなことを言う歳になったか。昔のままだと思っていたのにね


それっきり会話が途切れて二人はしばらく水面を見つめた。音にならない旋律が静寂に響いた。夜の色が深くなると、揺らめく水面に月が映った。いつまでも終わらない悠久の夜だった。

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