数日後、実行委員の二回目のミーティングがあった。今回は学校側から道具の貸し出しなどの事項が通達されるらしい。私は開始五分前に席に着いた。その時、鳩美の姿がないのに気付いた。どうせそのうち来るだろうけど。

それでは今日のミーティングを始めます。定刻通りに集まってくださって、ありがとうございます

 今日も若王子さんの声が明るく響く。最近はインスタ映えという言葉が出来たけど、この会議室の最前列が彼のベストポジションだ。私も思わず見とれそうになったけど、そんな自分にはっと気付くと思わず視線をそらした。
 何かを見ないように努めることは、それを意識していることの裏返しだ。その数秒の間に彼の姿が急に私の意識の中に流れ込んできた。それはまるで紅茶にミルクを落としたよう。透明な液体の中に濁った液体が拡散していって色を変えていく。
 どうしてだろう。彼のことをこんなに意識したことなんてなかったのに。今まで何とも思っていなかったけど、今は何を感じているんだろう。
 一瞬そう思ったけど、その感情の正体には既に気付いている。彼は恋のライバルかもしれない。彼ほど魅力がない自分にいらついていたんだ。
 鳩美もこの甘いスマイルに魅せられたんだろうか。そう思って正面を向いたけど、依然として空席だった。初めは遅刻かなと思った。それも鳩美らしいけど。
 ところが、鳩美は最後までその場に姿を見せなかった。今日は学校自体を欠席しているんだろうかと思って終了後に担当の先生に尋ねてみた。

二年二組の実行委員の人はどうしたんですか?

 すると仰天の回答が返って来た。

それが今朝、登校中に車にはねられて病院に送られたらしいよ

 次の瞬間、私は絶句してその場から動けなかった。まさかそんなことになっていたなんて……。それは客観的事実なんだろうけど、受け入れるのを拒みたかった。
 私は急いで二組の教室に行った。教室に入ると去年同じクラスだった人がすぐに視界に飛び込んで来たので、捕まえて問い詰めた。

篠崎さんは何という病院に送られたの?

呉市民病院よ

彼女は無事なの?

さあ、詳しい容態は知らないけど

 送り先の呉市民病院は呉ではわりと知られた病院で、そこに行くには多少時間がかかる。私は最寄りのバス停からバスに乗って向かった。
 その間、鳩美の顔が脳裏から離れなかった。詳しい容態は知らなかったけど、もしかしたら死んでしまったのかもしれないと不安になった。その不安が鋭利な輪郭を描き出す。あなたまで私の前からいなくなってしまうの?
 バスが走る速度はいつもと変わらないはずだけど、はやる私の心が遅く感じさせた。早く病院へ。私は心の中で念じ続けた。赤信号でバスが止まる度にわずかの時間がもどかしく、早く動けと心に念じた。
 随分、時間がかかったように感じたけど、ようやくバスは呉市民病院の前に到着した。名前は知っていたけど、初めて見る建物。でも、そんな感慨にふけっている余裕はない。私は受付で詰所の場所を訊くとそこに直行した。そこには数人の看護師がたむろしていたが、誰かが死にそうだとかいう切迫した雰囲気はなかった。
 私はその中の一人にせき込むように尋ねた。

篠崎鳩美さんの病室はどこですか?

104号室ですよ。今から案内しますね

 その人は親切に対応してくれた。104号室の前まで来ると「ここです」と言ってドアをノックした。

篠崎さん。入りますよ

ドアを開けると鳩美は起き上がっていて「オッス」と返事をした。

鳩美、心配したのよ

私はベッドに駆け寄って泣きそうになりながら声を振り絞った。

捻挫しただけだから二、三日で治るって

そう……

安心したら緊張の糸が切れて涙が出て来た。私がうつむくと鳩美は頭をなでてくれた。二人の想いが一つに織り重なり、二人だけの世界を作り出したようだった。そして、私たちは光の輪の中へ導かれた。

お邪魔みたいだし、僕は帰ろうかな

その感動的なムードに浸っていると、私の意識を現実に引き戻す声が聞こえた。そう、その部屋には鳩美の母親と若王子さんがいたのだ。帰ろうとした若王子さんに鳩美の母親は尋ねた。

あら、どうやって帰るの?

バスです

もう夕方だし、帰るのが遅くなるでしょ。タクシーを拾ってあげるわよ

じゃあ、お言葉に甘えます

ということだから私も樹君と一緒に帰るわね。それじゃ、お大事に

そう言って二人で病室を去って行った。
 母親まで樹君なんて呼んでる。この二人は両親も認めた公認の仲なんだ、と瞬時に察知した。冷淡な光景を見せつけられて、いつの間にか涙も止まっていた。会話が途切れて静まり返った病室で、意を決して私は切り出した。

やっぱりあなたのそばには若王子さんがいるのね。私なんかが入り込めないほどに

勘違いしないで。私と彼はそんな関係じゃないのよ

いいえ。私は知っているわ。あなたたちの約束された愛の形をね

そうか。もう隠し通せないみたいね

隠すって何を?

学校では秘密にしていたけど、樹は私の従兄なの

その瞬間、えーっ!? と私は心の中で驚きの声を上げた。

こうしないとクラスの人からうらやましがられたり変な人間関係に巻き込まれたりするかもしれないからね。お願い、由梨も秘密にして

私が抱えていた疑問は瞬時に氷解し、思考回路が整然とつながった。全ては私の思い込みだったんだ。私は何と形容していいのかわからない複雑な感情にしばし支配された。

帰宅すると、この一ヶ月ほどの間に起こったことが走馬灯のように脳裏をよぎった。まさか若王子さんが鳩美の従兄だったなんて。同じ中学校に通っているなら家も近いんだろうし、兄妹のように育ってきたんだろう。だったらあんなに親密な関係になるのも全く不思議じゃない。
 それよりも今、私の中にある感情は何だろう。これでもう二人の間を遮るものは何もない。それなのに私たちの恋の成就を妨げているものは何なの? 私は何にためらっているの? しばらく考えたけど、結論は見えなかった。

その日の夜、私はもう一度あの時の夢を見た。それは初めて鳩美と言葉を交わした日のこと。バスに乗って帰る時間になると、別れ際に鳩美は私に言った。

明日も遊ぼうね

それにうなずく私に鳩美はこう付け足した。

将来は由梨ちゃんのお嫁さんになりたいな~

それに私はこう答えた。

うん、約束する。二人で幸せになろうね

それは二人の絆が初めて生まれた瞬間だった。内気な私が初めて他人に心を開いたのはこの時だった。初めて同じ時間を共に過ごそうとした人は鳩美だったんだ。
死ぬ時は一人だけど、生きるのは一人じゃない。命は一人に一つだけど、人生は他人と分かち合うものなんだ。今になってそれを実感した。
人は成長して社会の仕組みを知ると既成の枠にはまっていく。恋愛も異性とするものだと思うようになる。でも、あの時、汚れを知らない無垢な心の私はそれに囚われなかった。そう、あの頃の私は固定的な社会の因習に囚われてはいなかった。それはそのままの素直な心。それを今、取り戻したような気がした。

季節は秋の深まりを迎え、同時に私の生活はいつもと変わらない日常を取り戻したような気がした。懸案となっていた一つの事項を除いては。私はやっと自分の気持ちを整理し、一つの答えが見え始めていた。
告白するのは勇気がいるけど、返事をするのも同じくらい勇気がいる。けれど、私の心の中で恐れとの戦いは完全に終わっていた。
 三日後、鳩美は退院して登校した。私は鳩美にメールして屋上に呼び出した。以前とは逆に私の方からメールを送った。どんな文面にしようかと苦心したけど、「告白の返事をします。放課後に屋上に来てください」とシンプルに入力して送信した。
今度は私が先に屋上に行った。高い所だけあって風が強い。ふいに吹き抜けた突風が髪をなびかせた。その中で心は風に乗って届くと何かの信念のようなことを感じた。
 ほどなく屋上に現れた鳩美は怪我も完治して以前と変わらない様子だった。私を見ると

ついにこの時が来たわね。どんな返事を聞かせてくれるのかな?

 と不敵な笑みを浮かべた。
 私は敷地の縁(ふち)の方に数歩、歩んで鳩美に背を向け、遠くの景色を眺めた。風も私を励ましている。私は淀みなくまっすぐな想いを告げた。

最近、考えるようになったんだけど、人生はいつまでも変わらずにいられることが幸せなのか、変わり続けていくことが幸せなんだろうか。どっちだと思う?

さあね。考えたことがなかったわ

私は今まで私を取り巻くものがいつまでも変わらずにいてくれたらって願っていたの。でも、そんなことはできないわ。だってこの世は諸行無常なんだから。だから、私も自分が変わり続けることに幸せを求めることにしたの

そんな刹那的なことを言ったら、人生を楽しむ余裕がなくなるわよ。私は人生は長いものだと思ってるけどね

シリアスなことを言い放った私に鳩美はくすっと笑って答えた。

『あしたのジョー』でも矢吹丈はこんなことを言っているの。「そこいらの連中みたいにブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんの瞬間にせよまぶしいほど真っ赤に燃え上がるんだ。そして後は真っ白な灰だけが残る‥‥。燃えカスなんか残りやしない‥‥。真っ白な灰だけだ」ってね。初めて読んだときは刹那的な人生観だって思ったわ。でも、大切なのは結果として何が残ったかじゃない。生きている間にかけがえのない瞬間にめぐり会えたら人生は意味があるのよ。そう思ったら、私の前を通り過ぎるどの瞬間もきらめいて見え始めたの。人の人生は宇宙の歴史に比べれば一瞬にすぎないけど、短くても輝きを放つこともあるのよ

私は振り向いて鳩美の方を見つめた。

あなたに告白されてから迷っていたの。それを受け容れることが禁断の世界に踏み入れるように思えてね。でも、私は拒絶したんじゃない。心の中に迷いが生じただけだったの。その迷いが心に秘めた想いを曇らせていたわ。でも、その迷いが晴れたとき、やっと気付いたの。愛ってためらわないことだと。そんな気持ちに気付いたとき、なぜあの時からあなたの見え方が変わっていったのか、やっとわかったわ。愛ゆえに人は美しいのよ

由梨……

鳩美は私の名前をつぶやいたきり、その場に立ち尽くした。

法律や制度、伝統や常識、外聞に世間体。私たちを遮る全てを越えて国境や時代の全てを越えて、そこにあるだけでハートを震わせる感情。それが愛なの。鳩美……。愛を誓いましょう

私たちは情感を込めた瞳で見つめ合った。その瞬間、そよ風が吹いてあたりはたおやかな雰囲気に包まれた。それは秋の陽差しと風の香りが溶け合った空間。そのわずかの時間が永遠のように長く感じられた。
その中で私たちは互いに引かれ合うように歩み寄った。そして私と鳩美はキスをした。この一瞬に永遠の祈りを込めて。永遠の時の流れを一瞬に閉じ込めて。

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