窓の外を見ると大きな雲が風に流されていた。それでもそれがどうなろうと、その下の人間の営みには影響を与えない。教室の中では担任の教師が事務的な連絡事項を淡々と説明していた。

それじゃあ実行委員を決めるけど、やりたい人はいる?

 と言ったが、誰も挙手しなかった。文化祭の実行委員なんて面倒なだけで、自ら志願するような物好きは滅多にいない。この年齢になると運動会や遠足の醍醐味も雨天中止になるのだから。

じゃあ、くじ引きで決めるわよ

 こういう時は多数決で「人望」がある人を選出することもあるけど、くじ引きの方が公平な決め方だ。先生は割りばしを容器に入れたくじを卓上に置いた。これは割りばしに一番から最後まで数字が書いてあって、授業で生徒を当てるのに使っている。先生はジャラジャラと音を立てながら割りばしをかき混ぜ、そのうちの一本を取り出した。

女子の六番。河村さん、お願いね

彼女がそう言うと、えっ!? と心の中で声を上げた。くじ運なんてさっぱりないのに、こんな時だけ当たるなんて。この世に神がいるなら私にだけは意地悪をするんだと自分の運命を呪った。
他人が実行委員をやるのは去年の文化祭の時に見たけど、非協力的な生徒たちの心を一つにまとめるのは大変そうで、楽しくなさそうに思えた。それでも当たったからにはやるしかないのかとささやかな運命を受け入れた。
私は河村由梨。平凡な中学校に通う平凡な生徒だ。住んでいる所は広島県の呉市。生まれてからずっと呉で育ったけど、観光名所もこれといってない、やはり平凡な町だ。
平凡なのは学校や居住地だけではなく、私の人生も平凡の一語に尽きる。テレビを見ると自分と同じくらいの年頃の人が華やかな業界で活躍しているけど、私にとっては雲の上の世界だ。
その生活が平凡じゃなくなるとすれば、やっぱり恋愛と結婚。そのうち白馬に乗った王子様が目の前に訪れ、平凡な生活から連れ去ってくれる、みたいな憧れも少しはあるけど、やはりこれまでの人生で変わったことは起きず、平凡な前半生だった。
しかし、その平凡な日常が急転することになるとは、この時の私は思いも寄らなかった。

 昼休みにランチを食べ終わって一人でぼーっとしていると、かばんの中の携帯電話が振動した。学校では電話がかかって来るのをアピールしているみたいなのを嫌って、着メロを鳴らさないことにしているのだ。開くとメールが届いていた。鳩美からだった。

話したいことがあるので放課後に屋上に来てね

 何の変哲もないシンプルな一文。けれど最後のハートマークは何を意味するのだろう。
 篠崎鳩美は幼稚園から一緒の幼なじみ。おっちょこちょいなところがあって私とは性格が似ていないけど、誰よりも気が合う数少ない友達だ。類は類を呼ぶなんていうことわざもあるけど、似ていないからこそ良好な関係を築けることもあるんだと思っていた。
 でも、話をするのに学校の屋上に呼び出すなんてどういうことだろう。世間話なら教室ですればいいのに。周りに人がいない場所を選んだのだろうか。そもそも屋上には何があるの? 屋上に行ったこともない私の脳裏に複数の疑問がよぎった。
 午後の授業中、何気なく窓の外を見ると、やはり雲が風に流されていた。しかし、それは何かを象徴するわけではなく、単なる客観的事実として印象に残った。
 放課後になると、メールにあった通り屋上に行った。この学校の屋上に行くのは初めてで、階段を登る間、少し緊張してきた。屋上にある鉄扉は押すでも引くでもなく横にスライドさせて開くということも、この時初めて知った。重量感のある重い扉をガラガラと横に動かすと、風が吹き抜けて髪をなびかせた。
 初めて来る屋上。数歩、歩んであたりを見渡すと、コンクリートで舗装された床の端に雑草が生えていて、生命はこんな所にも根付くんだとふと思った。
 そして、同時に私の視界に見覚えのある人影が入って来た。それは鳩美だった。

よく来てくれたわね

 向こうから先に声をかけた。こんな周りに人がいないような所で鳩美と二人きりになるなんて初めてかもしれない。この特殊なシチュエーションが特殊な何かを呼び起こしそうな予感がした。
 静寂と呼ぶには少し大げさな空気の均衡を鳩美の方から破った。

秋になると吹き抜ける風の色が心に染み込んで、どこか知らない場所にいざなってくれそうね。今はちょうどそんな季節。心の中が秋の彩りに染まりそうよ

え……

 私はきょとんとしていた。

この世は諸行無常と言うけれど、どの瞬間にも同じことが繰り返されたら、その存在はなくならないわ。例えばろうそくの火がそう。燃え尽きるまで燃え続けているように見えるけど、実は一瞬で消えて再び点火することを繰り返しているのよ。人の命も人生もそう。新しい何かがいつも始まるなら絶えず存在し続けていられるの

 鳩美はそんなことを言うために私を呼び出したんだろうか。彼女の意図がわからず、私はしばし呆然としていた。

芸術家は死んでも後世に作品が残るでしょ。私は凡人だからそんなことはできないけど、私が死んでもこの世界に私が存在していたことはなくならないの。その人生を大切な人と愛し合った一つの物語にできたら素敵だね

 いつの間にかその場のシリアスな雰囲気に引き込まれていきそうだった。私は鳩美を中心に渦巻いている魔界に足を踏み入れているような気がして、その場の雰囲気を日常のそれに切り替えようとした。

それで結局、何が言いたいわけ?

ああん、もうっ! せっかくシリアスに決めようと思ってたのに~。こうなったら単刀直入に言うしかないわね。由梨。私の恋人になって

 その瞬間、私は飛び上らんばかりに驚いた。それでもうろたえながらかろうじて問い返した。

鳩美、気は確かなの?

一期一会なんていう言葉もあるけど、人の出会いははかないものよ。これまでの人生で多くの人が私の視界を過ぎ去って行ったわ。でも、あんただけはいつも近くに寄り添ってくれた。これは運命なんじゃないかって思えるのよ。だから、あんたとの関係を変えたいの。お願い、私の伴侶になって

そんなこと本気で言っているの?

もちろん本気よ。冗談で言うわけないじゃない

 それっきり沈黙した私に鳩美は

しばらく考える時間をあげるわ。返事は近いうちにちょうだい

 と言ってその場を立ち去った。

 帰宅するとバタッとベッドの上に身を投げ出して、その一日を回想した。まさか鳩美があんなことを言い出すなんて。本気なんだろうか。それとも私をからかったの?
 もし本気なんだとしたら、鳩美の中で私は特別な存在になったことになる。私にとって鳩美の存在は空気のようにあるのが当然で特に意識しなかったけど、鳩美にとって私は恋愛の対象になっていたんだ。これまで全く意識しなかったけど、そんなこともあるのか。
 鳩美の告白を受け容れれば、これまで何もしなくてもいつの間にか出来上がっていた鳩美との関係が特別なものに変わる。そして、それは禁断の愛の形。私がそんな営みにふけるなんて許されるのだろうか。
 これからの自分の姿を想像して憂鬱な気分になっていると、ほどなくお父さんが帰宅した。両親は私が幼い頃に離婚して、父子家庭での生活が長く続いている。
 子供の頃は帰宅すると母親が出迎えてくれる生活に憧れたこともあったけど、今は二人だけの生活に慣れて、そんなことも思わなくなった。誰でもいずれは結婚して親元を離れる。私の場合はそれが人より早いだけなんだ。そう考えて割り切っていた。
 他の家庭だと思春期の若者にとって親は自分の人生を支配する高圧的な存在なのかもしれないけど、そのせいか私とお父さんは対等な立場に立てて、親子というよりは歳が離れた友達のような関係を保っていた。
 学校の帰りにスーパーで買ったアジの南蛮漬けを皿にのせ、あとは冷蔵庫から昨日の残りを出してレンジで温めた。家事は二人で分担して行うから同じ年頃の人より主婦っぽいことに慣れているつもりだった。
 二人だけで差し向いになって食事をするのも私の中ではありふれた光景になっていたけど、今日は恋愛や結婚の経験がある大人の見解を聞いてみようと、食卓について三十秒ほどたって私の方から沈黙を破った。

突然だけど、今まで特に意識していなかった人を急に好きになるのはどんな時なのかな?

その人の新しい一面を見た時かな。あるいは好きになる方の心の内側が変わったのかもね。付き合いが長いほど、かえって多様な面が見えてくるんだよ

 じゃあ私が何か他の存在に変わったわけじゃないけど、鳩美の主観に映る私のイメージが変わったってこと? でも、どうして? そう思うと、また沈黙に陥った。
 私は人と恋仲になったことがないけど、お父さんは結婚まで経験している。そう言う自分はどうなんだろうと思ってさらに深入りした。

お母さんとはどうして結婚したの?

お母さんの方が先に好きになったんだよ。すると僕の心の中にも愛が芽生えたんだ。人から想われるのはうれしいことだからね

それだったら片想いはかならず実るってことにならない? 恋愛ってそういうものなの?

恋愛は相撲の立ち合いのようなものかもしれないね。お互いが向かい合って呼吸が合ったら成立するんだ。でも、相撲のようにどちらかが突っ掛けて待ったもあるかもしれないね。由梨もあせっちゃだめだよ

 そういうものかと私は感服したが、じゃあ初めに好きになるのはなぜなんだろうと思って、お父さんに訊いてみた。

人を好きになる基準って何?

さあね。恋って説明できない気持ちのことさ

 と笑いながら言うお父さん。経験が豊富な大人のアドバイスはあまり役に立たなかった。

 その夜、私は夢を見た。そこはある幼稚園。幼稚園で園児たちが先生を囲んで楽しそうに何かをしている。その中で私はなぜかその群れからはぐれていて、そっぽを向いていた。すると一人の園児が駆け寄って来て声をかけた。

そこで何をしているの?

別に

 私はあいづちだけを打った。

私は鳩美。あなたは?

由梨よ

由梨ちゃんもあっちで遊ぼうよ

 そう言って私の手を引いた。それから鳩美に導かれて皆の輪の中に入って他の園児たちと遊んだ。さっきまではそっぽを向いていたけど、皆といっしょに遊ぶのもやってみると意外と楽しかった。
 そうしているうちに、あっと言う間に時間が流れて帰宅する時間になった。多くの園児は母親が待っているから三時頃に帰るけど、私はこの時間に帰宅しても誰もいないから、もうしばらく幼稚園に預かってもらうことになっていた。園児たちは順にバスに乗っていく。
 別れ際に鳩美は私に言った。

明日も遊ぼうね

 今日、初めて言葉を交わしたけど、何年も親交がある親友のように感じられた。そして、鳩美はこう付け足した。

将来は由梨ちゃんのお嫁さんになりたいな~

 すると私は微笑を浮かべて答えようとした。
 その時、目が覚めた。鳩美と初めて会った時のことなんて幼過ぎてもう覚えていなかったけど、これが鳩美と初めて会った日の記憶なんだろうか。物心ついた時からずっとそばにいて空気のようだった鳩美の存在。でも、全てには始まりがあるんだ。
 それにしても私はあの時、何と答えたんだろう。思い出そうとしても思い出せない。それが心の中でざわめき始めた。

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