私は病院を出て、急ぎ足で公園に向かった。駅を降りると、晴れているのに天気雨が降り出した。傘を持っていなかったからぬれたけど、かまわず歩いた。
 春の公園は春らしい装いを見せ始め、そこに小雨が降ると優しさと寂しさが入り混じったような雰囲気を醸し出していた。
 私はまっすぐに薔薇園に向かった。歩き慣れたはずの坂道が今日はなぜか急に感じたけど、一気に登り切った。
 眼前に現れた光景は私の気持ちを映してはおらず、超然として視界に横たわっていた。あたりを見渡すと、薔薇のつぼみが静かに身を潜めて芽吹く時を待っているようだった。
 私はその中央に立って意識を集中させた。目を閉じて瞑想すると、心が意識の底の方に沈み込んでいくような感覚がした。何かが見える。私は一瞬、微かな手ごたえを感じた。
けれど、何か見えない壁にはね返されたようで何も見えなかった。やっぱり自分からはできないの?
 こんなものは何の役にも立たないと思っていた。でも、役立てるのは今。私は天に祈った。一瞬だけでいい。この願いを叶えて。
 その瞬間、暖かい光が私を包み込んだような気がした。ほのなか慈愛に満ちた優しい光。私の精神は光のヴェールで外界から遮断され、天上へと導かれた。この光の正体が何なのかは直感的にわかった。伊織さんの心が天国から舞い降りたんだ。
 そして、私は一連の出来事の核心を悟った。あの夏の日の目覚めから今までの全てはこの瞬間のためにあった。病床の聖二さんに希望を届けるために。私欲のためではなく人のために尽くそうとする時にこそ、奇跡は起きるんだ。
 由梨、今こそ真価を試す時よ。そう自分に言い聞かせて、降りしきる雨に身を任せながら全身全霊で意識を集中させた。今ならできるはず。伊織さんが私の背中を押してくれるのだから。
伊織さん。語ってよ。時代(とき)の流れに取り残された愛の欠片を。
私は降りしきる雨の中で祈りを込めて能力(ちから)を解放させた。すると思念が天から降って来るようなこれまでとは違う新しい感覚に包まれた。そして、私の意識は徐々に春のまどろみに溶け込んでいった。
 夏の暑い日だろうか。セミの声が聴こえる。太陽が地面を照り付けると、淡い陽炎が立ち昇った。
聖二さんは何かに憔悴し切ったようにベンチに座っていたけど、それとは逆に伊織さんは落ち着きなく、そわそわと歩き回っていた。

あー、テントウムシ。二年ぶりくらいに見た

伊織さんは子供のような無邪気な声を上げた。

聖二も見に来て。かわいいわよ

昆虫をかわいいとは思わないな

興味なさそうにそう言うと、聖二さんは煙草を取り出した。

君が好きな銘柄だよ。吸うかい?

去年から禁煙してるのよ。やっぱり健康に悪いしね

でも……

でも、何なの?

……

聖二さんは答えに詰まったようだった。それに伊織さんはその気持ちを見透かしたように付け加えた。

もうそんなことを気にしても意味がないと思っているの?

そう言うと伊織さんは近付いて聖二さんの隣に腰かけた。二人はしばしの沈黙に陥ったが、三十秒ほどたって伊織さんの方からその均衡を破った。

そうかもね。でも、愛する人がいる以上、私も最後まで命を大切にしたくなったの

伊織さんは再び立ち上がると数歩、歩んで立ち止った。その足音があたりに張り詰めた緊張を微かに揺り動かした。

ねえ、あなたは残された寿命があとどれくらいになったら死ぬ準備を始めるの?

死ぬことが確定した時かな

それで具体的に何をするの?

まだ読んでいない本を読んだり、まだ見ていない映画を見たりして思い残すことがないようにするよ

でも、それは余命が十分に長い時にすることと変わらないんじゃないの?

余命が短くなると、生命や時間の重さが変わってくるから、違う意味を持ち始めると思うよ

そうね。それが変えるのは生きることの意味よ。残された人生が少なくなるほど命は輝き続けるの。だから私は死ぬための準備はしない。だって人は死ぬために生きているんじゃなくて生きるために生きているんだからね

伊織さんはふいに振り返ると、太陽の光を背後に背負って語った。

たとえ世界の終わりが明日だとしても私は今日、林檎の種をまくの

伊織さんがそう言い放つと、全てが時間を止めて、あたりは一瞬の静寂に包まれた。風が吹き抜けて、あたりが少しざわめきを取り戻すと、伊織さんは語りかけた。

私が死んでも私の存在があなたの記憶に刻み込まれて、あなたの存在の一部になるの。そして、その精神を共有する誰かがいる限り、他の誰かに伝わって、時代を越えて受け継がれる。そうして命のメロディーが続いていくのよ。だから受け取ってよ。心の中の林檎の種を。いつか私がいなくなっても私たちが愛し合ったことが消えてしまわないようにね

心の中の?

そうよ。記憶も感情も全てを糧にして育っていく心の樹よ。永久に枯れないわ

ああ、そうだね……

そう言うと、聖二さんはうっすらと微笑を浮かべた。
 私は甘い幻想の中でまどろみながら、伊織さんの言葉を幾重にも反響させた。伊織さんは死ぬ場所を探していたんじゃない。生きる場所を求めていたんだ。残された命がわずかになっても最後まで気高く生きようとしたんだ。
 今は天国にいる伊織さん。聞こえるかしら。あなたが残した生命の鼓動が今も私の中にも息づいていることを。
あなたは私たちを悲しませず、最後までさよならを言わなかった。あなたの存在は私たちに勇気と生きる希望を与えてくれる。それを心の糧にすれば、どんな時も新しい自分になって明日を迎えられる。
 曇りのない心で一途に愛を説くあなたが残してくれたもの。それを引き継いでこれから出会う全ての人々に伝えていくこと。それが私の使命になるでしょう。
 甘美な愛の詩(うた)。あなたの静かな囁き。全てがたおやかに私を包んだ。それは時を越えて私の心を満たし、過去と現在を一つにつなぎ止める。なんて大きな力……。私はこの一瞬に永遠を感じていた。
 今、やっとわかった。私はなぜ超能力に目覚めたのか。全てはこの言葉を聞かせるための序奏。未来へ踏み出せなかった私と聖二さんのために伊織さんが贈ってくれたエールだったんだ。
 たゆたう流れの中に身を任せていると、その光景はぼんやりと遠のいていった。私はこの情景を記憶に焼き付けようと心に念じた。けれど、私の意識は幻想の中を漂ったままで、なかなか現実に引き戻されなかった。
 どこかで誰かの声が聞こえる。春風の音色のようななつかしい響き。それは風が吹き抜けるようで、はっきりとした言葉にならなかったけど、私の名前を呼んでいるような気がした。耳を澄ませると、その声は次第にはっきりと聞こえてきた。
 そして、もう一つの情景が輪郭を鮮明にしていった。
 それは私が最後に伊織さんに会った日。何やらしょんぼりとしている七歳の私に伊織さんは声をかけた。

由梨ちゃんは来週、呉に帰るのよね

でも、なんだか帰りたくないな。ずっとこのままでいたいの

私はわがままを言った。

家に帰ったら、お父さんが待っているでしょ

でも、あんまりかまってくれないんだもん

じゃあ、こうしようか。心の中に記憶の触媒を作るのよ

えっ、どういうこと?

私は驚きの声を上げた。

誰だって思い出が詰まった大切な宝物があるでしょ。でも、物質に何かが宿っているんじゃなくて、人がそれを通じて過去の思い出を呼び覚ますのよ。だから、この薔薇園もそう。この景色を心に刻み込めば、いつでも記憶が甦るわ。ここ以外にもどこかで薔薇が咲いているのを見たら、今の気持ちや思い出があふれてくるはずよ。なんてね。由梨ちゃんにはちょっと難しかったかな

じゃあ、そうする

また三人でこの公園に来ようね

伊織さんはそう言うと初夏の風の中で微笑んだ。
 そうだ。私はあの頃の気持ちを思い出した。私は二人に嫉妬なんかしていなかった。三人で一つの時間を共有していたんだ。片親で寂しかった私は家族のぬくもりを求めていた。伊織さんに母親の面影を見ていたんだ。
 その時、私の心の中のわだかまりが少しずつ溶け出していった。聖二さんには「あなたは過去を振り向いてばかり」なんて言ったけど、過去を振り向いていたのは私も同じ。これから訪れる未来に目を背けて、過去に幸せを求めていた。
 でも、もう振り向かない。過去は甘い記憶を宿しているけど、未来はもっと広いはず。そこにはまだ何もないけど、これから新しい何かを作っていける。それに希望を託せば、いつでも未来に向かって歩き出せる。
 止まっていた時間が今、動き出す。閉ざされていた心をそっと溶かすように。私は不安やためらいから未来へ進むことを恐れていた。人生は時に厳しく、いくつもの試練が待ち受けているのかもしれない。けれど、それを通り過ぎれば、きっと未来に幸せが待っている。
 だから私はもっと強くなる。時代を越える風の中で。たとえ風が吹きすさんでも、私は未来へと続く運命のドアを自分の手で開けるの。
 大河のように時代は流れる。心の奥を満たして、記憶の泉を潤して。その流れに身を委ねれば、どこか遠くの彼方へと導かれる。
 そして、未来はいつしか現在に変わり、その向こうにさらに新しい未来が開けて来る。全ては変わり続ける。私は何にでもなれる。どこへでも行ける。それが未来――。
 私は九年前の自分に語りかけた。

由梨……。未来を恐れないで。あなたの行く末には幸せが待ってる

祈りを込めた言葉とともに思念は薄れゆき、意識は完全に現在に戻った。あたりを見渡すと薔薇のつぼみや花樹が不思議な成分で満たされているように感じられた。植物にも愛が宿るのかとふと思った。
心身がリフレッシュした私は自分が新しい存在に変わったような気がした。いつしか雨は止んで空には虹がかかっていた。清々しい気持ちで空を見つめると、空の青さが身に染みて、木漏れ日がまぶしく見えた。

私はその足で病院に戻った。病室を訪れると、聖二さんは心なしか少し元気になったような様子がした。私があの公園で見たことをどう伝えようか戸惑っていると

ぬれているね

と向こうから先に声をかけた。

最後に公園に行ってきたの。今はローズマリーがきれいよ

もう、そんな季節か……。また見られるといいね

そんな弱気なことを言っちゃだめ。必ず元気になるのよ

私はお姉さんっぽくたしなめた。ほんの数時間前までは聖二さんには強く生きて欲しいと思っていたけど、今はなぜか人としての弱さが愛しく思えて、それを受け入れられるような大らかな気持ちになれた。
私は今の自分の想いを言葉に変えて伝えようとした。

ねえ、死ぬってどういうことだと思う?

さあ、何だろうね。僕は死んだことがないからわからないよ

私は人の命は建物が老朽化するように衰えていって、いつか死を迎えると思っていたの。でも、それは違うわ。命はろうそくの火が一瞬で消えて再び点火することを繰り返すように新しく生まれ続けていって、それができなくなったとき人は死ぬのよ。だから死期が迫ってもいつも命は新しいの

そうか。でも、いずれにしてもたどり着く所は同じだろう

いいえ。大切なのは結果じゃない。その人の人生で大切なものは何なのか、何を感じたのか。それを確かめられたら、いつか終わる人生にも意味があるのよ。思い出して。あなたの心には二人で植えた林檎の種があるじゃない

そうか。思い出したよ。僕の人生にはまだ意味があったんだね

少し光が差し込んだような気がして、私はさらに語り続けた。

ねえ、人は死んだらどこへ行くと思う?

さあね。行く所なんてあるのかな

私は少し前まで、もう届かない所に行くと思っていたの。でも、それは違うわ。人の人生が終わりを告げるとき、その人にまつわる数々の記憶が愛する人の心の奥に染み込んでいくこと。それが死なの。だから人は死んでも愛する人の心の中でいつまでも生き続けるのよ。あなたの心の中にも伊織さんが生きているでしょ

私がそう言うと、聖二さんは返事をした。

そうだといいね

室内に穏やかな雰囲気が流れた気がした。

生きるのも死ぬのも一人じゃない。愛する人と分かち合うものなのよ。死んだ人はもういなくなったけど、過去に存在したことはなくならないし、あなたたちが愛し合ったこともなくならないの。伊織さんも私たちの心の中で存在し続けているのよ。だから、あなたも生きて

そうか。伊織は僕の中ではまだ過去の人じゃないんだね

聖二さんの顔色が気色ばんだように見えて、私も高潮した。

過去は変えられないけど、それが未来を照らしてその意味を変え続けてくれる。そして、いつしか過去の意味も変わっていく。だから私も振り向かないことに決めたの。私はどの瞬間にも自分が新しくなっていくのを感じるのよ。だから想いが実らなくても先に進める気がする

私が発した言葉は静寂に幾重にも波紋を広げた。同時に室内は淡い光を帯びた気流で満たされた。それはアクアマリンのきらめき。私たちの心を優しく潤していく。さやかに、たおやかに……。
今、私の心に芽生えた感情を愛と呼ぶなら、それは過去と未来をつなぎ合わせる架け橋になる。あなたを愛して、時にはその深さゆえに自分を見失ったこともあったけど、今なら全てを受け入れられる。
 あなたは、いえ、あなたたちは私を一回り強い存在に変えてくれる。だから少し前まではあなたがそばにいても孤独を感じていたけど、もう寂しくなんかない。あなたたちと同じ時代に生まれて巡り会えたこと。それが私の誇り。これからの私の行く末に光を灯してくれるの。
私は最後に聖二さんに告げた。

さよなら、聖二さん。あなたから卒業するわ

全て言い切ると、病室を後にした。これでもう、しばらく会う機会もなくなるのかな。でも、次に会うときは笑顔で迎えて伊織さんの思い出を話してくれるといいな。
また会いましょう。あなたの心に薄紅色の薔薇が色づく季節に。

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