普段なら歓談をしながら夕食を食べる頃。遅くやってきた兄ヤーコプの顔は厳しかった。

ヤーコプ

ヴィルヘルム、これは何ですか?

 彼はぞんざいに本を置く。いつもの彼ならば本を粗雑に扱うなどないことなのに……これは確実に怒っている。

ヴィルヘルム

んー? なんだい、兄さん。あ、これは『強盗のお婿さん』の物語だね。

 最近思い付きで手を出した気がする。でも、そんな小さなことでカッカすることも……あるだろう。
 開いたままのページを見ると、最近のものらしい物語が進行していた。

 男がいる。彼の拠点である小屋の中だろう。真っ黒に塗られた床には鉈やワインのビンが散らばり、一箇所に何かの骨が積まれている。よくみると髪の毛や衣類も同様に隅へやられているようだ。

ウンアンリッシュ

あー、食った食った。

 満足そうに笑みを浮かべ、骨のみになったそれを放り投げた。カラン、と軽い音をたてて骨の山の一部となる。

下っ端

いやー、それにしても流石真実の鏡っすね。こんな簡単に攫える女も知ってるなんて。

ウンアンリッシュ

しかも美人っつー条件も付けられる。

ウンアンリッシュ

くくく、次の獲物はどんなのがいいかぁ?

老婆

ごめんよぉ……ごめんよぉ……

 彼らは人喰い――しかも美女の――を目的とした悪党である。ウンアンリッシュの美貌と演技で女性と父親を騙し、己の小屋へ連れてゆき、殺し、喰らうのだ。
 それでも、慎重におこなっていた。頻度も少なかったのだ。……真実を言う鏡が来るまでは。

ヤーコプ

この強盗、あなたが白雪姫に誘導したのですよね!?

ヴィルヘルム

全く兄さんは細かいんだから……。捕まる運命である彼の出す被害ぐらい、たいしたことないでしょう? いくら真実の鏡でも、訊かれた事しか答えない。主人公は無事に帰ってこられる運命だ。

ヤーコプ

……他の童話の主人公が被害にあっても、同じ事を言えるのですか?

ヴィルヘルム

え……!

ヤーコプ

やはり気付いていないのですね……!

ヤーコプ

だからあれ程変えるなと言ったではないですか!

ヴィルヘルム

……。

ヴィルヘルム

だから何? 物語の主人公が死んだ?

ヴィルヘルム

彼らは物語の守護の下、不慮の事故で死なないようになっているだけで、殺されるときは殺される。その原因のひとつに物語への介入があったけれど、もしかしたら僕が介入しなくても誰かが殺したのかもしれないでしょう?

ヴィルヘルム

それに、物語の主人公が死んでも、次の物語を待てばいいじゃないですか。あ、いっそ、主人公不在の物語として楽しみましょうよ。

ヴィルヘルム

うん、それはいい。とってもカオスになりそうだ。

 愉快そうに、本心を隠すように笑うヴィルヘルム。
 その本心を知ってか知らずか、ヤーコプは苛立たしげに呟いた。

ヤーコプ

…………です。

ヴィルヘルム

はい?

ヤーコプ

もううんざりです! あなたのこうした身勝手な行動で、どれほどの物語の元型が失われたか! わかりますか? えぇ、わからないでしょうね。

ヴィルヘルム

そんなに怒らないでくださいよ、兄さん。

ヤーコプ

……

ヤーコプ

そうですね。あなたが心を変えるなら、大人しくなりましょう。

 ヴィルヘルムの困惑した声にも耳を傾けず、ヤーコプは知人から貰った電話へと向かう。メモの通りに番号を回し、電話をかけた。

ペロー

はい。

 同じような世界の創造者、フランスのシャルル・ペローだ。会話も最近はしていないが、滞在先にはいいだろう。

ヤーコプ

そちらにしばらく泊まらせて下さい。

ペロー

あー、別に構わない。

ヤーコプ

ありがとうございます。では、荷物をまとめ次第行かせていただきますので。

 ガチャン! と電話を切る。

ヴィルヘルム

兄さん、どういったつもりかな?

ヤーコプ

少し他との相対で見てみますとも。えぇ、しばらくは帰りませんよ。

ヴィルヘルム

兄さんっ!

ヤーコプ

……。

ヴィルヘルム

お願いだよ、謝るから!

ヤーコプ

……。

ヴィルヘルム

兄さん!

 振り返りもせず、最低限の荷を持って家を出る。「さよなら」も「行ってきます」とも言えなかった。

ヴィルヘルム

兄さっ……!

 兄を引きとめようと進んだ足が崩れた。
 兄の名を呼び続けた口から、ヒューヒューと別の音がもれる。
 呼吸が、つらい。息が吸えない。否、吐けない? 
 気持ち悪い。グルグル回る。つらい、苦しい。

 助けて。兄さん、助けて……!

ヴィルヘルム

大丈夫。ここは童話の世界で、僕は死ねないから。死ぬことはないから。きっと兄さんが魔法で助けてくれる。大丈夫。少し寝るだけ。目が覚めたら、兄さんがいてくれる。「私がいないとだめですね」って困ったように笑ってくれる。でも着てくれなかったら? いやそんなことはない。大丈夫。兄さんは来てくれる。絶対。

 思考がグルグルと回る。
 だが、兄が来てくれるということへの痛ましい信頼は、願望は、思い込みは、ヴィルヘルムが意識を失うまで途切れることはなかった。

第十二幕「わが半身よ、その心を教えてくれ」

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