街路樹の桜が、風に舞う。

今日も一日、暖かいんだろうなぁ。

あっ……


いつもと変わらない陽射しと、桜と、川辺の様子。

けれど今日はいつもより特別で。

よしっ


私は、木の影から飛び出して、彼の元へ駆け寄った。

こんにちはっ

精いっぱい明るい声で。
大丈夫、上手くいった。

こ、こんにちは……?


あれ、引かれた?
ううん、きっと大丈夫。
それに、今日頑張らなきゃチャンスはもう二度と来ない。

隣、座ってもいいですか?

え、えぇ、どうぞ……


不審げな視線。痛い。けれど、我慢。

川の方へ足を放るようにして腰掛け、私は足をぶらぶらさせる。

あの、貴女は……?

あ、私は蝶野結子っていいます

蝶野さん……。あの、失礼ですが、何処かでお逢いしたことありますっけ?

えぇ、何度も

すみません、覚えてないです……

仕方ありませんよ。気にしないでください

そうですか……。あ、僕は春野陽太です

よろしくお願いしますっ

はい、こちらこそ……


自己紹介が終わり、沈黙。
気まずそうに眼を逸らす彼。めげるな、私。
せっかくのチャンスを無駄にしたくなくて、話題を探す。

いや、探す必要なんてない。
いつも思っていることを訊けば……

あのっ

えっ、はい!?


質問しようとしたら、逆に声をかけられた。
逸らされていた目線がこちらに向いていて、ドキッとした。

あっ、えっと、何処でお逢いしたんでしたっけ?

此処ですよ、春野さんが絵を描いているのを時々見かけます

そうなんですか!?それはちょっと恥ずかしいな……

え、なんでですか

絵を描いてることは、知り合いには隠していて

え、でも、此処じゃすぐ見つかるんじゃないですか?

家から五駅離れてます、此処

わざわざ来てるんですか!?


それは知らなかったなぁ……。

なんか照れます、あはは……


あ、ちょっとだけ顔が赤い。

自分でもそのことに気づいたのか、彼は隠すように顔を川の方へ向けつつ、言う。

でも今日は、ちょっと不思議な夢を見たからスケッチブックを家に置いてきて、此処でぼうっとしてるんです

それはどんな夢でした?

……んー。これ言うとあれなんですけど、貴女と逢う夢でした。正夢を見たようです

本当ですか!?それはすごいですねぇ

はい。だから最初あなたに声をかけられた時、驚いたけど正直あまり戸惑いませんでした

そんな夢を見たのか。


今日のこの特別な一日に、そんな特典までついていたなんて。
私はきっと彼より驚いている。

なぜ、スケッチブックを置いてきちゃったんですか?

あぁそれは、見せてと言われたらどうしようって

……自信持っていいのになぁ

?

思わず呟いてしまったけれど、彼の耳には届かなかったようでほっとした。

って、夢なんて信じて恥ずかしいなんて思ってたんですけどね


あはは、と彼が笑う。
私もつられて笑ってしまう。それが少し恥ずかしくて、咳払いで誤魔化した。

絵の話題が出たことで、切り出しやすくなった。

私は聴こうと思っていたことを尋ねる。

春野さんの絵、すごく綺麗だなって、実はこっそり覗かせてもらってたんですけど

えっ、えぇっ!?

だから今日、スケッチブック見たかったです

い、いやあ、お恥ずかしい

恥ずかしがることなんてないですよ

あ、それでですね、いつも蝶の絵ばかり描いているなって思ってて。それって、何か理由があるんですか?


ずっと聴いてみたかったこと。

……蝶って


彼は口を開いた。でも、それっきり何も言わず、なにかを考えているようす。

あ、と思い至る。

もし、言いたくないことなのであれば、聴きません。すみません……

いえ、そんなことなくて。そういえば、はっきり理由を考えたことはないなぁと思って

え、そうなんですか?


私は絵を描かないからよく分からないけれど、理由はあまり気にしないものなのだろうか。

うーん……。蝶って、花とセットだというイメージしかなかったんですけど、最近、そんなこともないんじゃないかなぁと思い始めたりしてて。強くてしなやかで、儚い存在なのに確かにそこに居る、というか。小さい蝶でもつい目で追ってしまうんですよね

なるほど……


そんな風に考えたことはなかった。

って、なんか語っちゃいました、すみません

いえ、素敵だと思います

その存在感に惹かれたんでしょうか。前は他の絵も描いていたんですけどね、最近はずっと蝶を描いてますね……

難しくないですか?ずっと同じ場所に留まっているということもなさそうですし

それでこそ、という感じです。花はたくさんあるから、蝶だってきっと目移りしちゃうんでしょう

目移り、ですか……

花はとても綺麗ですから


……貴方の笑顔のほうが、綺麗ですよ。

なんて考えてしまって、一人で勝手に恥ずかしくなる。

蝶野さんは、絵、描きますか?

いえ、私は

そうですか


沈黙。
最初よりはゆったりとした沈黙だ。

けれど、そんな悠長なことは言っていられないのだ。

あの、春野さん

はい、なんでしょう

……その、


駄目だ。まだ、心の準備ができていない。

夢で、私たちどんな話してました?

えっとー……。あ、覚えてないです、あはは、すみません

そうですか、夢って、あまり覚えてないものなんですね

えっ、夢、みたことないんですか?

あっ、はい、あまりなくて……


墓穴を掘った。私は焦って、あはは、と空笑いしてしまう。

桜……。そろそろ、散りそうですね

もう、そんな時期ですか

今がピークだと思いますよ


そっかあ、と残念そうに呟き、彼は桜の方を見やる。

桜の花には、そういえば、蝶がとまっているところを見たことがありません。蝶野さんは?

私もないです

木の蜜とか、蝶って吸うんですっけ

どうなんでしょう。今度、調べてみようかなっ

楽しみが一つ増えましたね

彼はそう言って、また笑った。

彼の笑顔には、それだけで周りを明るくする不思議な力があると思う。彼の周りだけ、空気が違う。それは私も感化されそうになるほどに強い力だった。


そして、三たび訪れる沈黙。

……夢見鳥

え?


破ったのは彼。夢見鳥?

蝶って、ある故事から夢見鳥、とも呼ばれているんです。知ってましたか?

いえ、知らないです

ある人が胡蝶になる夢を見て。目覚めたその人は、夢で胡蝶になったのか、それとも今人間になった夢を胡蝶が見ているのか疑った、というもので

それだと、蝶も夢をみるということでしょうか

どうなんでしょう……。結局その人は、れっきとした人間ですからこの故事だけではなんとも言えませんね……


そんな話もあるのか。夢見鳥。知らなかった。

自分が人間であることを、疑ったことがありますか……?

僕はないなぁ。蝶野さんは?

私っ!?あ、私も、ないです、あはは

私の慌てぶりに首をかしげる彼。

少しずつ、自分に限界を感じ始める私。



潮時、というやつなのだろうか。



でも終わらせたくない。まだ、嫌。




けれど騙したまま終わらせるなんて、そんなことは絶対にしたくない。

春野さん

はい

……それでは、周りに居る人間が人間ではないかもしれない、ってこと、疑ったことはありますか?

んー……。それも、ないです

……では、私のことも?

……え?


深呼吸。大丈夫、落ち着いて、私。

私、人間ではないんです

……っ!?えっ、えっ、蝶野さんが!?えっ、嘘、わからない!!

一日だけ、今日の一日だけなんです、私が人間でいられるのは

……あの、えっと、僕はどうすれば

慌てた様子でキョロキョロと辺りを見渡す彼。私のこともじいっとみつめるから、すこし恥ずかしい。

どうもしなくていいですよ。ただ、すこしだけ私の話を聴いてください

あれは、去年の春のことだった。

私がいつものように、この川辺で飛んでいた時のこと。

スケッチブック片手にゆったりと歩く若い男性が現れた。初めてみかける人で、すこしだけ興味を持った私は彼から距離を取りつつ様子を伺っていた。

……此処、かな

川縁に腰かけ、さらさらと風景を写生し始める彼。その絵はとても綺麗で、私はしばらく見惚れていた。

そんな日々が続いた時、彼のそばを飛び回る一匹の蝶が現れた。

うおっ、びっくりしたあ……

平日のこの時間帯、春休みといえど人はすくない。彼は遠慮なく声をあげ、その蝶をみつめた。

綺麗だなぁ

私のことを言ったのではない。


けれど、なんだかとても嬉しくなってしまって、私も彼のそばへ寄った。

……描いてみるか

彼にみつめられることは、とても恥ずかしくて今すぐ飛び去ってしまいたいような気持ちにもなったけれど、それすらも嬉しかった。


蝶に目を留めて、綺麗だと言ってくれる人間に出逢っ
たことがなかったから。


手で払われるような経験はすれど、大切なものをみる時のような目でみつめられたのは、初めてだったから。




それから彼は、此処に現れては蝶の絵を描くようになった。

最初の頃は風景だけだったのが、今では蝶ばかり。

彼と話してみたい。そんな願いは、自然と生まれていた。けれど、そんなことは当然叶わないと思っていた。




でも今日。この一日だけ、ある人に私の願いを叶えてもらうことができた。

そうして今、此処で彼と向き合っている。人間として、出逢っている。

……貴女は、蝶だったんですか

信じられないかもしれません。それでもいいんです、私の願いはもう叶ってますから

もしかして貴女は、薄桃色の、蝶ですか?

……なぜ分かったんですか!?

雰囲気です。そう言われてみると、感じるものがあったってだけで


信じてもらえたようだった。そのことも嬉しい。

けれどそれ以上に、私のことを深く理解してくれているということもわかって、さらに嬉しい。

わざわざ、僕に逢うために、ありがとうございます、すごく嬉しいです

そんな、お礼なんて。私は貴女が蝶を大切にしてくれる理由を知りたくて。貴女と、対等な立場で話してみたかっただけなんです。此方こそ、ほんとうにありがとうございます

彼はしばらく、私をみつめていた。目を合わせることは出来なかったが、いつものように大人しくしている。

……だから、何度も出逢っていると言っていたんですね

そうです、初対面じゃないんですよ?私たち

……ほんとうに、今日の一日だけなんですか?

はい、私の願いを叶えてくださった方に、そう言われました。そして、今日が終わってしまえば私に逢った貴方の記憶が消えてしまうとも

……僕、忘れてしまうんですか!?

そうみたいです。残念ですけれど、でも、私はこんな奇跡が起きただけでも、もう満足です

貴女は忘れないんですか?そんなのずるいですよ


ふてくされている彼が少し可愛い。

……こればっかりはどうにも、と仰ってました

……仕方ありませんね。あっ、スケッチブック持って来ればよかった!!描けば、忘れてしまってもずっと残るのに


悔しそうな彼の様子に、本当に逢いに来て良かったと、そう思った。

……そろそろ私、行かないといけません

えっ、今日一日は人間のままなのでは?

知られて仕舞えば、このままでおいてはおけません。ギリギリまで我慢しようと思っていたんですが、駄目ですね、隠しているのが心苦しくて

そうなんですか……

ひどく切なそうな表情で目を伏せる彼。




……あぁ、そんな顔しないでください。

大丈夫ですよ、会話は出来なくなってしまいますが、私はずっと此処に居ます

こんな素敵な出逢いを忘れてしまうことがもったいなくて……。なんだか寂しいです


そんなこと、言わないでください。

今からでも、スケッチブック取りに行こうかな!!そうすれば、記憶に残らなくても、記録として残すことは出来るし……

彼はそんなことを言いつつ、あぁでも時間が、などと悩んでいる。



あぁ、やめてください。

……やっぱり、逢いになんて来なければよかった

え……?


口をついたのは、私の本心ではない。けれど、そう思ってしまったのもまた事実だった。

だって……

そんな、そんな風に名残惜しそうにされてしまったら、蝶に戻りたくなくなってしまいます!!


叫んでしまった。彼はぽかんと口を開け、固まっている。

……ごっ、ごめんなさい


勢いで立ち上がってしまい、それも恥ずかしくて私はすごすごとしゃがみ込む。

やめてくださいよ、蝶野さん

え?


一段低くなった声のトーン。怒らせた……?

確かに僕もうじうじしてましたけど、でも、そんなはっきり言われたら僕だって叫びたくなりますよ!!

忘れたく、ない!!


口に手を添えて、川の方へ向けて、彼は叫んだ。

嫌ですよ、蝶野さんは蝶だけど、でも、やっぱり、人間です!

……ふっ、なんですか、それ。めちゃくちゃですよ

……あ、いや、その、えっと、すみません。なんか、僕、変でした


あははっ、と照れくさそうに笑う彼。

僕、忘れません。忘れてしまうけど、忘れませんよ


真剣な表情でそう言う彼。

……本当は覚えていて欲しいです、私も


泣きそう。今にも涙が溢れそう。

でも、堪えて。

でも、蝶としての私をまた春野さんが描いてくれたのなら、とても嬉しいです

描きます、描きますよ

……そろそろ、みたいです

消えた瞬間、忘れてしまうんですかね

……そう、だと思います


知られてしまったからには、記憶もすぐに消えてしまうだろう。そういう話だった。

隠し通した方が良かったですか?

いいえ、知れて良かったです

ありがとうございます、春野さん

また、此処で逢いましょうね

声は届いただろうか。

彼は頷いたと思う、最後の瞬間に。そうだといい。そうであったらいい。

蝶に戻る。ふわり、飛ぶ感覚が懐かしい。
私はやっぱり、どうしようもなく蝶なのだと、実感する。

彼は訳が分からないというような様子でキョロキョロしている。

彼の肩に舞い降りてみる。

おっ、蝶だ。綺麗

ほんとうに忘れてしまっているみたいだった。わかっていたことだったけれど、やっぱり寂しい。

でも、私の願いは叶った。叶えてくれたあの人の元に、報告も兼ねて、お礼に行かなければいけない。

けれど、その前に。

彼の頬による。つん、つつく。キスのつもりで。

んっ、なんだなんだ


驚いた様子の彼が面白くて、私はきっと、笑っていた。

秘密
Fin.

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