7/7/2012 21:20
四条病院 救急搬送口

 救急車が救急搬送口の3メートルほど手前に止まると、すぐさま救急車のリアハッチが開き、サイレンが鳴りやむ。しかし、サイレンの代わりと言わんばかりに、蓋の空いた白い箱からは泣き叫ぶ少女の声が漏れだす。

高木 唯

お兄ちゃぁん!死んじゃやだよぉ!

 手際よく救急車から担架をキャリアーに乗せた隊員。それに一歩遅れて、少女は救急車から40センチほど下の地面へと飛び降りる。涙で足元がよく見えないのか、着地すると二歩ほど足をよろつかせたが持ちこたえ、隊員に続く。

 隊員たちは走っているわけではないが、その少女は追いつけない。少女は自分から兄が引きはがされていく気がして、もう兄とは会えない気がして、思わず「待って!」と言いそうになるが、その言葉を飲み込む。
 自分の無力さを痛感しながらも、できる限り兄の近くにいたい。その思いだけで、必死に担架の後を追う。

高木 唯

お兄ちゃん…死なないで…

 担架に乗せた兄を数人の看護婦が病院の中へと迎え入れる。少女は両目からこぼれる涙を両手で拭きながら、必死についていく。

看護師

容体に変化は?

 担架からは血が滴り落ち、一刻を争う状況であることは火を見るよりも明らかだ。鮮血が廊下にぽたりぽたりと一筋の赤い線を作っていた。

いえ!…依然として出血が止まらず…

隊員は間髪入れずに返答するが、不安に紛れ動揺が伺える。しかし、そんなことはどうでもいい。まずは、急いでこの患者を然るべき場所へ届けることがここにいる全員の最優先事項だ。

  手術室はもうそこだ。汗だくになりながらも、気を緩めず手術室の扉へ向かっていく。

看護師

ここまでで結構です!

冷静だが大きな声 ― ある種、叱責にも似た声 ― で隊員へと指示を出す看護師。この場で最も尊いものは患者の命だ。今発せられた言葉にはそれ以上の意味は含まれていないが、隊員は自分の無能さを責められているような、そんな気持ちになっていた。


この異常な出血に対する絶望感は救急隊員としての自信を失わせるには十分だった。あれぐらいの傷なら大丈夫。そう思っていた。救急車でかけつけ応急処置をした時点では、一安心とさえ思った。しかし、状況は搬送中に加速度的に悪化し、ここに至る。そしてもう隊員にできることはない。

  勢いよく手術室の扉を担架が通り抜ける。

高木 唯

うっ…うっ…

  立ち止まっていた少女は、涙でいっぱいの目で兄を見送る。ただ立ち尽くす少女の肩に看護師が手を優しく添える。

あなたはここで待っていて。
あなたのお兄さんはきっと大丈夫。
きっと大丈夫だから。

  その優しさは少女の心にはもう響かない。


 もはや少女は兄の隣にいることさえできない。この椅子の上で永遠とも思える、心が窒息するようなそんな重圧に耐えなければならないのだ。


 「手術中」の表示を見上げる少女の様子は、祈りの姿に似ていた。

 

 手術室に入ってすぐ看護師の視界の隅に入った白衣の男。違和感を感じるが、それよりも目の前の患者のことだ。


 手術台の隣まで担架を持っていくと、あとは患者を手術台へ乗せその運命を医師にゆだねるだけ。そういう段階に入ったためか、そこにいる白衣の男についてつい思考を巡らせてしまう。


 翡翠色をした術衣を着た臨戦態勢の医師たちとは雰囲気が違う。白衣は着ているものの、医師かどうかも怪しい胡散臭さを醸し出している。とにかく、この男だけが場違いである。

 せーのという掛け声と同時に素早く看護師たちは患者を手術台へと担ぎ上げる。担架に横たわる人物は顔面蒼白で、その場にいた医師たちは全員が最悪の結末を思い浮かべた。

 気づくと、先ほどの白衣の男はいつのまにか手術台の隣にいる。そしておもむろに止血のために使われていた布を取り払い、傷口を露わにすると、患部の上に手をかざす。

白井 隆之

ん…なんでこんなに…

 この男のそんな様子に目を奪われそうになるも、医師たちは即座に輸血の準備を整え、輸血を始める。
 それを片目に、この男は白衣の胸ポケットから白い紙を取り出すと、掴んだそれを傷口の上にかざす。

白井 隆之

#&@△◯×□

  男が小さな声で何かを呟くと、30センチほどの長さだったその白い短冊が一瞬にしてクシャっと歪んでつぶれた。

看護師

!?

 あまりに一瞬の出来事だったので、看護師は自分の目を疑った。紙を握りつぶしたのではなく、紙がひとりでにつぶれたのか?どちらだったか思い出せないほど刹那の出来事だった。

 あっけにとられる看護師を横目に、男はそのくしゃくしゃになった白い紙を二本指でつまんだまま、こちらに背を向ける。そのまま扉まで行くと、反対の手を「あとはよろしく。」と言わんばかりにヒラヒラと二、三度振り無言で手術室を後にした。

医師たちの努力の甲斐があってか、絶望的に思えた状態からみるみるうちにバイタルが安定し始めた。傷の処置が終わり傷口を縫合すると、医師たちは安堵の表情を浮かべた。

看護師

太い動脈は傷ついてはいましたけど、傷自体はそんなに大きくありませんでしたよね…
あんな傷で失血死になりかけるっていうことはあるんですか?

よくあることではないが…

看護師

止血できないと聞いていたので、血友病のような血液の特殊な疾患を抱えているものと思ったのですが…

      ※血友病…血液が凝固しづらい病気。

そういう可能性は十分考えられたが…
何らかの理由でこうなったのかもしれない…

看護師

それにあの男…
たまにここで見かけますけど一体…

あの男は…
国の機関から派遣されて…
この地域の顧問医師とでもいうべきか…
説明が難しいんだが…

患者の家族が待っているから、まずは患者の容体を伝えてこよう。

看護師

はぁ…そうですね…

看護師

あの男は一体…

  ゆっくりと手術室の扉を開け、患者の妹と思われる人物に近づき、「妹さんですか?」と声をかける医師。それに反応し、咄嗟に立ち上がる少女。

もう大丈夫だからね。頭を打ったりしたわけではないから、お兄さんはしばらくすれば目を覚ますと思うよ。

高木 唯

ほんと…に?

 笑顔で静かにうなずく医師。緊張の糸が切れたのか…少女は足の力が抜けてしまったようにぺたんとその場に座り込んだ。

高木 唯

お兄ちゃぁんが…助かった!
よかったぁ!
…ありがとう…お医者さん…

私は、ただできることをしただけだよ。
何も特別なことはしてはいない。
がんばって生きようとしてくれたお兄さんに「ありがとう」って言ってあげなさい。

高木 唯

うん…グスン…

 差し出された医師の手をとり、起き上がらせてもらった少女は、立ち去る医師の背中を神様を見るかのような眼差しで見送った。

 姿が見えなくなると、先ほどまでずっと座っていた椅子へ再び腰を下ろす。少女の目元は赤く腫れ、鼻の頭も赤くなっていた。少女は、持っていたハンカチで涙をぬぐい、ポケットティッシュで鼻をかんだ。そして少女は深呼吸を3回してやっと落ち着きを取り戻した。

  

序章 第0話「少女の祈りと白衣の男」

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