……?


 チャイムの音とともに動いた背後の気配に、思わず首を傾げる。

……?

 後ろの人は、そんなに急いで、どこに行くつもりなのだろう? 外は、寒いのに。

 生徒の様子には頓着せず、おもむろに教室から去る教師を見送りながら、尤理は静かにノートを閉じた。

尤理っ!


 明るい声に、一瞬だけ、教科書を鞄にしまう手を止める。

おっひるごっはんっ!


 顔を上げると、華やかな花柄のお弁当箱入れを軽く振る背の高い友人、響歌の、人懐っこい笑顔が見えた。

……。


 響歌の後ろには、地味な色のランチボックスと水筒を抱えたもう一人の友人、茜が居る。

お腹空いたっ!
早く食べようっ!

 尤理が座っていた教室隅にある手近な机を並べ替えて、三人分の席を作る。

 授業で座る席は自由に決められる。ましてや、昼休みに座る席には誰も口出しできない。それでも、教室の隅に陣取ってしまうのは、教室で虚勢を張っている人々を避けるため。口には出さないが、それは、響歌と茜、そして尤理、三人共通の認識。

尤理、今日もパンなの?


 尤理が鞄から引っ張り出した茶色の紙袋に、響歌が鼻を鳴らす。

じいちゃんもばあちゃんもおばさんも忙しいって。


 それだけ言ってから、尤理は好物である、板チョコを挟んだ甘いコッペパンにかぶりついた。

 尤理の祖父母は、この世界に暮らす人々が、人が住める領域を越え、『禁域』と呼ばれる場所に入らないよう監視する『限界管理者』。

 木々が葉を落とすこの季節は、山の中に入りやすくなる所為か、領域を越えようとする輩が多いらしい。

 雪は降らないが痺れるほど寒い早朝から境界を見回る謹厳な祖父と、故障しやすい『システム』の修理に忙しい祖母に迷惑を掛けない。それが、この世界を、『システム』制御の人工知能とともにこの世界を管理する役割を担う『管理者』である母の多忙故に母方の祖父母の元に預けられた尤理の、矜持。

 尤理がかぶりついているパンは、祖父母の家にともに暮らす叔母が、仕事からの帰り道に買ってきてくれるもの。叔母自身も仕事が大変そうだから、弁当は期待できない。

パン、美味しいから、それで良いんだけど。


 響歌と茜、二人に気取られないように小さく肩を竦めてから、尤理はあらためて、二人が食べているお弁当を見た。

 響歌のお弁当箱には、形が少し崩れてはいるが、かわいらしい手鞠寿司が入っている。

 響歌は、毎日、家族全員分のお弁当を作っているらしい。

いつも思うけど、響歌、器用だなぁ。


 紙袋から、これも叔母が買ってきてくれた缶詰のサラダを取り出しながら、尤理は少しだけ口の端を上げた。

 台所は祖母の領域だから、尤理も、一緒に暮らす叔母も、料理を作ることができない。それが、事実。

 玉葱が入っていないので食べやすい缶詰サラダの、缶切りのいらない蓋を開けながら、今度は茜の昼食を見る。

 茜のランチボックスは、響歌のお弁当箱よりも小さい。だが、中身は栄養バランスが整っている。ランチボックスの脇に置かれたスープジャーから漂う水蒸気に、尤理は目を細めた。身体の弱い茜を案じている茜の母は、具沢山のスープが入ったスープジャーを常に茜に持たせている。じっと見つめないように、尤理は茜のスープジャーから視線を逸らした。

高等部に行っても、ずっと、家族分のお弁当作るつもりなの、響歌?


 その茜が、響歌の方を向く。

職業科だからね。
校舎はここの隣だから、今と同じで良いし。


 響歌の答えは、ひどくあっさりしていた。

 十五歳までの成績で、十六歳以降の進路はがらりと変わる。

 数学の成績が壊滅的過ぎて、普通科は無理だと先生に言われた。そう、普段以上にあっさりした口調で報告があったのは、二月くらい前のことだったか。そのときの響歌の乾いた瞳を思い出す前に、今度は響歌が茜に向かって口を開いた。

茜は、普通科だっけ?

うん。

教職の専門大学に行って、憧れのK先生と一緒に働くんだよね。

え……。


 からかいを含んだ響歌の声に、茜の頬が耳まで赤くなる。

 話し方が迂遠すぎて尤理は敬遠しているが、優しくて若いK先生に憧れる女子生徒は多いと聞く。

飛び級して早くこの学校に戻らないと、先生誰かに取られちゃうかもよ。

え……。

 にやりと口の端を上げた響歌と、俯く茜を、尤理は好ましく見ていた。

 と。

尤理は、特進科だっけ?


 不意に、響歌が尤理の方に話題を向ける。

全寮制の、都会の高等学校に行くんでしょ?


 どこか乾いて聞こえる、響歌の言葉に、尤理は小さく頷いた。

良いなぁ。


 その尤理の耳に、羨望を含んだ響歌の声が響く。

まあ、成績一番だし、当たり前だよね。

……。


 響歌の言葉に、尤理は小さく首を横に振った。

 母や祖父母と同じ『管理者』になることが、小さい頃からの尤理の目標。心身共に頑健で、成績も優秀でなければ、『管理者』になるための条件である『特進科』に進むことができない。だから、頑張った。ただ、それだけ。

そういえば。


 話題を変えるために、教室を見回す。

人、少ないけど、みんなどこに行ったの?

屋上。


 尤理の問いにあっさりと答えてくれたのは、響歌。

『海』を、見てるんだと思う。

海?


 続く茜の言葉に、目を瞬かせる。

 『海』なんて、この町を出て、都市を結ぶ高速鉄道に乗れば、いくらでも見ることができる。なのに。

この町を出ていける人は、少ないからね。


 高速鉄道は値段が張るし、一般の人間には、住み慣れた町を出る理由は無い。当たり前の口調で、響歌が呟く。

この辺りの『海』は『禁域』になってるし。


 この町で一番高い建物は、少し小高い丘の上に立っているこの小さな学校群。昼休みにのみ解放される屋上に行って、禁域との境界をなす山々の向こうにある、自分たちは赴くことができない海を眺める。それは、『大人』のシステムに組み込まれ、ばらばらになる前の子供達の、小さな抵抗、なのかもしれない。紙袋にゴミを納めながら、尤理は再び小さく、首を横に振った。

海なんて。


 もう一度、小さく思考する。

 町の外に出れば、見る機会はごまんとある。屋上に行かずとも。

 午後の選択授業の準備をするために尤理から離れた響歌と茜の背を見送りながら、もう一度、教室をぐるりと見回す。

……。

 一人で、昼御飯を食べたり本を読んだりしている男子がちらほら居るだけで、女子は、尤理と響歌と茜しか居ない。香澄も、教室で幅を利かせているグループにくっついて、屋上で海を見ているのだろう。

 一月ほど前、授業で先生に指名されて立ち尽くしてしまった香澄に後ろから正答をそっと囁いて以来、香澄とは一言も話していない。

どうして、香澄、怒ってるんだろう?


 祖父母の所に預けられる形で尤理がこの町に来てからずっと、子供の足で歩いて十分はかかる隣家に住んでいる香澄が、一番の友人だったのに。

このまま、別れちゃうのかなぁ?


 他人事のような胸の痛みを感じながら、尤理は乱暴に、軽くなった紙袋を鞄の中に突っ込んだ。

 はっと、顔を上げる。

 斜めになった日差しが、机に広げた小型PCを赤く染めていた。

いけない。


 眠気を払うために、小さく首を横に振る。

 どうやら、レポートを作成している間にうとうととしてしまったらしい。

 そして、……夢を見た。尤理が今居るこの場所がまだ『中学校』と呼ばれていて、多くの生徒がこの場所で様々なことを学んでいた時代の、幻想、を。

……。

 子供達が集団で授業を受けていたのは、『大災害』前の話。

 今は、実技科目以外は全て、個々の理解と進路に合わせた学習を、『システム』を通じたオンラインで行うことができる。級友、友人と呼べる人々は、『システム』の向こう。

まあ、良いか。


 幻想を振り払うように、座っている固い椅子の上で大きく伸びをする。

 今日はこの場所で実技科目があった。特進科へ進むためのレポートもうんざりするほど作ったから、きっと疲れているのだろう。

 いつも耳に引っかけている、『システム』と繋がっている情報処理機器が脳に送ってくる、帰宅して休むようにと諭す助言に頷くと、尤理はもう一度、座っている固い椅子の上で大きく伸びをした。

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