低い声に、はっと振り向く。
眠れないのか?
……。
低い声に、はっと振り向く。
少し恰幅の良い中年の男性が、管理棟の最上階に設えられた小さなラウンジに置かれている飲み物の自販機を操っているさまが、僅かな明かりでもぼんやりと識別できた。
あれは……。
この施設で、尤理達『管理者』の職務の調整を行っている文里主任。この場所に到着してすぐに紹介された人物像を、尤理は一瞬で脳内から引き出した。
今日到着したばかりだろう?
明日から仕事に取りかかってもらわなければならないのだから、早く寝なさい。
雪の音が、うるさくて。
小さなラウンジに満ちたコーヒーの匂いに少しだけ唇を尖らせながら、その匂いと主任の小言を振り切るように、先程まで眺めていた窓の外に目を向ける。
僅かに明るい夜の風景を邪魔するように降り注ぐ、雪とも氷ともつかぬ白い線と、時折無駄に大きく響く雷鳴に、尤理は肩を竦めて、手の中の紙コップに入った生温いココアをぐっと飲み干した。
これ、雪、だよねぇ……。
尤理にとって『雪』とは、ひらひらと、まるで何かの始まりや祝福のように降るものであった。……この場所に来るまでは。
ザザザザッと騒々しい音を立てて激しく降る、氷の粒のような雪。そして一瞬の光と共に鳴り響く雷の轟音。『北陸』という地区の南方面に位置するこの場所の雪は、尤理の幻想を完全に打ち砕いた。
……。
少女っぽい幻想のままに、一冬をこの町で過ごすと決めたことを、この町に来た直後から尤理は後悔していた。
確かに、この雪は、全然綺麗じゃない。
……けど。
それでも、白に沈んだ町は、何故かどことなく美しい。
空になった紙コップを弄びながら、尤理はしばらく、窓の外に見惚れた。
二百年ほど前に起こった、全世界を破壊寸前まで追い詰めた『大災害』の後、この国もこの町も変化を余儀無くされた。
この町にあった行政の中心は、千年以上の昔に行政の中心であった場所へと戻され、平野が広がるこの町は、あらゆる食物を生産する場所へと変貌させられた。郊外へと無秩序に広がっていたらしい町は、鉄道駅を中心にしたこぢんまりとした町へと組み替えられ、九頭竜川、足羽川、日野川によって古代に形作られた水気の多い平野は、この国有数の農業地帯として知られている。
しかし、重い雪が降り積もる冬に、農業は難しい。尤理と同じように雪の降る音が耳について眠れないのか、まだ起きている人がいるらしい、窓の向こうの低層住宅地の明かりに、尤理は目を細めた。
この国自体の人口が激減している所為か、それとも刺激の多い都会に暮らす方が良いと思っているのか、この小さな町にある建物の殆どが低層の住宅となっている。
ほぼ機械化されているとはいえ、この少ない人数で、あの広い農場を管理しているんだよなぁ。
横を向き、ラウンジの壁に貼ってあるこの町の地図を見上げ、尤理は少しだけ首を傾げた。
人口が少ない状態でも、何も問題が起きていないことを、『大災害』の後に開発された人工知能とともに町を管理するという職務を持つ『管理者』の一人である尤理はしっかりと、知っている。
……。
もう一度、窓の外を見る。
町の東側に面した窓からは、鉄道駅とその向こうの低層住宅、そしてそれらを守るようにそびえる図書館の立方体が見える。
次の休みにあの図書館に行くことを忘れないようにしないと。
昔は郊外にあったものをそのままの形で建て直したっていうの、珍しいし。
そう思いながら、尤理は更に遠くへ目を移した。
図書館の立方体のずっと向こうには、眼鏡などの精密工芸品で有名な町との境を成す山が南側に、戦国時代と呼ばれていた時代に栄華を極めたという都市が隠された山が目の前に、雪降る中に黒々とした陰を晒している。
その更に向こうには、真っ白になった峻険な山々が映っていた。
あの白い山々のどれかが、『白山』という有名な山なんだろうなぁ。
どれが、白山?
……。
しかし尤理の問いに、常に耳に引っかけているイヤカフ型の小型情報処理機器は反応を示さなかった。
あれ?
おかしい。
普段なら、尤理の問いには数瞬で、深淵よりも深い『システム』中を探し回って答えを見つけてくれる優秀な機器なのに。
首を傾げた尤理はしかしすぐに、小さく息を吐いた。
……。
自覚は無いがおそらく、もう寝た方が良いと脳と機器が判断しているのだろう。
あるいは、ここから見えるどの山も白山という山ではないのかもしれない。
夜はもう、すっかり更けている。
寝ないと、明日の業務に支障が出る。
失礼します。
あ、ああ……。
新任者に小言を言ってすっきりしたのか、まだコーヒーを飲んでぼうっとしている文里主任に会釈すると、まだ手に持っていた紙コップを処理機に掛け、尤理はラウンジから管理棟内にあてがわれた自分の部屋へと戻った。
……ふうっ。
小さな部屋で制服を脱ぎ、ハンガーを使って壁に掛けてから、再びおもむろに窓の外を見る。
部屋の細い窓は西向きだから、ラウンジの窓とは異なる風景が見えた。
折り良く雪は止み、雲の間から少しだけ顔を出した月が、僅かな雪色に染まった灰色の平野を明るく映し出している。遠景は、雪の見えない暗い山肌を晒しているなだらかな、海を隠した山々、そして近景は、どこまでも平らな土地。
……いや、平らな土地の真ん中に、こんもりとした山らしきものが見える。
あれ?
……あの、山。
昼間、この部屋に案内されたときにはあっただろうか?
……。
首を傾げても、イヤカフ型の小型情報処理機器からは返答が無い。
もしかして、機器、壊れた?
機器が無くても業務には支障は無いが、明日、忘れずに修理を頼まなければ。最近流行の脳内埋め込み式ではないので、この小さな町でもすぐに修理できるだろう。
もう、寝よう。
耳から機器を外すと、尤理はカメラ機能を持つ掌サイズの情報処理機器を机から取り上げ、窓の外を写した。