やばい…
小さく呟いて、俺はメルを背中に庇い、腰の剣に手をかけた。
奴は呪文を使うつもりだ。破壊神の呪文なんて、えげつないものをまともに食らったら、到底タダでは済まないだろう。
斬るか、それとも…
全てを凍てつかせし
氷魔の王よ…
俺が迷っている間にも奴は俺の予想通り呪文を唱え始めた。
前置きの長く、やたら回りくどい呪文。これは破壊神の呪文ではなく魔導の呪文だ。
長く続くなら斬りかかるのもあり、他の呪文をぶつけて消すのもありだ。
そう考えて呪文を詠唱するクリスを見た。
……
その時、俺はその事に気づいた。
絶冥の剣以ちて
氷狼の息吹の如く
全てを穿つ…
低く囁いたクリスが更に複雑な印を結ぶ。
呪文が完成しようとしている。このまま発動のキーワードを言われれば極度の冷気と氷の刃の洗礼とを受ける事になる。
させるか!
叫ぶと同時に俺は腰の剣を抜いて奴に向かって斬りかかった。
だが、クリスは呪文の詠唱を中止すると軽いステップでまっすぐに突っ込んだ俺をかわした。
のわっ!
斬りかかろうとしていた奴が避けた事で俺は奴の後ろに倒れたままだったディーとアデルのまん中に突っ込むようにして地面に倒れ込む。
手にしていた剣は重い音を立てて地に落ちた。
………
地面に倒れたままで小さく呟くと背後で殺気がふくれあがった。
クリスが再び呪文を唱え直している。
俺が地面に倒れた事で、さっきよりも余裕を持って唱えられた呪文により氷の魔力が大きくなるのが感じられる。
やべっ!
ほとんど反射的に地面に落ちた剣を拾い様にメルの方へと向かって駆けた。
冥蒼の剣
的確に発動のキーワードを唱えたクリスが俺の方を指し示す。
ガイっ!
背後に強烈な冷気が迫るのを感じた瞬間、メルが叫んだ。
彼女は、その小さな身体いっぱいを使って俺を護ろうとするかのように必死に俺の足にしがみついた。
メルは全ての呪文を破壊する。自分がしがみつく事によって俺を討とうとする呪文の影響を消そうとしたのか…
だが、そんな事をしても強烈な氷の呪文の効果から逃れられるのは呪文を無効化するメル一人だけだ。
光の女神エレイミアよ
汝の御手を以て我らを護り給え
静かな声で囁かれる短い祈りが聞こえた。その途端、暖かな光が周囲を包み込み、俺に迫っていた冷気が一瞬にして消え失せた。
おそらくは光の女神の信徒だけに使える守護を請う祈り。そして、それを唱えたのは…
!
その祈りを詠唱した者に気づき、クリスが背後を振り返る。
……
そこには険しい目で彼を見るディーの姿があった。
馬鹿な…
小さく呟いた言葉に明らかな動揺が滲んでいる。
あの至近距離で神罰の呪を受けて、
死なないまでも動けるはずがない…
ガイ殿が治癒の魔法をかけてくれたのだ
!?
悪ぃな。さっき転んだ時に
回復させてもらったぜ
治癒の魔導は対象に接触する
必要があるんでな
だから、俺はクリスに突っ込むフリをして、わざとディーとアデルの間に奴らの身体に触れるようにして倒れ込んだ。
とっさに手にしていた剣を投げ捨てて、片手でディーの腕に、もう一方の手でアデルの肩に触れて治癒の言葉を呟いた。
あの時、クリスが俺を始末しようと呪文を唱え始めた時に奴の肩越しにディーの手が微かに動いたのが見えたからだ。
ならば自分で戦うより人にやらせる方がいいに決まっている。
そもそも、本来は光の女神騎士団に神敵が紛れ込んでいたのが悪いのだから。
そんなはずがない
呪文を詠唱している素振りはなかった。
印も結んでいなかった
事実を語られてもなお、クリスは考えが追いついていないらしかった。
魔導を使う際には普通は両手で印を結び、必要な言葉を詠唱する。けど、俺はディーとアデル…治癒の対象に触れはしたものの印も結ばなければ正確な呪文も唱えなかった。
ただ一言、魔導の言葉で〈治れ〉と言っただけだ。
そんなはずが…
てめぇは最初からどうしようもない
間違いを犯してたんだよ
……
黙り込むクリスに向かって俺は言った。
人間ってのは知識よりも経験が
ものを言うんだよ
てめぇは何度も何十度も転生して、
その都度、膨大な知識と経験とを
蓄えてきてたメルズィオルじゃねぇ
本人だという意識しかなく破壊神の事は
知識で学ばなければならなかった、
ただ頭のいいだけの若造じゃ熟練度が
違うんだよ
もしも、かつての闇司祭メルズィオルの記憶と知識とが伴っていたのならば、そいつは長い形式的な祈りの全てではなく祈りの重要な部分だけを詠唱して神の力を引き出していたのかもしれない。
魔導の言葉でも形式化された呪文の全てではなく本当に必要なキーワードを唱え、最小限の動作さえ伴えば、呪文は具現化する。
もっともそれを極めるには人間程度の寿命では足りない。エルフや魔族のように長命な種族ならどうにかやり遂げられるだろう。
だから人間で言うのなら、それこそ何十度もの人生を生きなければならない計算になる。
ただそれを追求すると、どうせ何でもできるのだから、いちいち何かするのが面倒になるという欠点はあるが…
光の女神に見つからないようにと記憶を
別の奴に押しつけたつもりだろうが、
それによって、てめぇは破壊神に関する
全ての記憶を失った
文献や書物に知識を蓄えた魔導とは違って神の奇跡は殆どが口伝だ。光の神や慈愛の神ならともかく、闇や破壊の神の教えがそうそう伝わっているものではない。そうなると、その神の奇跡の現れである呪文も使えないという事になる。
たぶん、こいつの唱えた呪文は古い書物や文献から得た知識でしかないのだろう。
初めに奴が不意打ちで唱えた神罰の祈り…というより呪いか…は、どの神にも共通する他者を攻撃する為の呪文だ。違うのは神の名くらいで、それこそ知識さえあれば使える類のものだった。
だからあの後、お前は
氷の魔法を使った
あの時感じられた魔力から見て奴が相当優秀な魔術師らしい事は解った。まあ奴の魔力が高いのはかつて闇司祭だった、その名残なのかもしれないが。
けど、どうするよ
魔導の呪文は複雑な印を結んで長い
呪文を唱えなきゃなんねぇんだろ?
それこそ、さっき奴が唱えていたようにだ。
それを大人しく待っているとでも?
クリスの代わりに応えたディーの声には明らかな怒りが含まれていた。
話は全て聞いていた
我らを欺き、何の罪もない少女に罪を
負わせ、自らは高みの見物等と到底
許せるものではない
騎士団長さんは、お冠みたいだぜ
まあ俺もメルのせいにしたって
とこには怒ってんだけどな
……
ディーと俺とに詰め寄られ黙り込んだクリスは、ただの頭の良い魔力の高いだけの若造でしかなかった。
もしも、奴がかつての闇司祭の記憶をも持っていたならば、事はこんなに簡単ではなかっただろう。
下手な策略を用いてくれたお陰で助かった。それとも、闇司祭メルズィオルは光の女神の使徒達に討たれ過ぎて、どこかおかしくなっちまっていたのかもしれない。
我ら二人を相手にして
勝てると思うのか?
っ…
勝手に我らにされてしまったのには少し文句もあったが、言ってもややこしくなるだけなので、ここは敢えて黙っておく事にする。
…二人ではありません
明らかに迷っているクリスの後ろから声がかかった。どうやら今まで気を失っていたアデルが目を覚ましたらしい。
このアデルもご一緒致します
事情が全て解っている訳でもないだろうが、俺達の会話の最後の方でも聞いたのだろう。剣を抜いて構えるアデルの顔にも怒りの色があった。
終わりだ
……
ディーの言葉にクリスは目を伏せうなだれた。
もし、奴が闇司祭の能力に目覚めていたなら短い呪を唱えられただろうが魔術師だけでは剣を使う奴が三人もいる、この状況では勝てない。
……
ディーがクリスの肩に手をかけるのを見てメルが俺の足にしがみついたままでヘナヘナと地面にしゃがみ込む。
もう大丈夫だぜ
…うむ
メルの髪をくしゃりと撫でながら言うと彼女は小さく頷き、それからようやく、その顔に笑みが浮かんだ。
その後、ディーとアデルはメルに正式に詫びた後、騎士団の会議にかけると言ってクリスを連れて帰っていった。
光の女神の処罰がどんなものかは知らないが、後は連中が何とかするだろう。
それよりも当面の問題が解決したことは大きい。
良かったな。
これでお前も安心して家に帰れるな
帰る家などない
大きく伸びをしながら言った俺にメルが即答した。
は?
どういう事だ
私は赤子の頃、やたらと孤児の
多い孤児院に捨てられて、
そこで暮らしていたのだ
食い扶持が減って喜んでいる
所に戻る訳にはいかんだろう
子供(ガキ)が世知辛いこと
考えてんじゃねぇよ。
元々そこにいたんだから
遠慮せずに世話になって
りゃいいんだよ
おおよそ普通の子供なら考えもつかないような事を言って黙ったメルの頭を軽く小突く。
まったく、こいつは幼女のくせに爺みたいな事を考える。
まあ、他人のものとはいえ老人の記憶があるのなら、それは仕方のないことなのかもしれないが…
まあとにかく、そこまで送ってやるよ。
何て街だ?
……………
…帰りたくない
はあ?
お前はお持ち帰りOKな女かよ?
言ってから幼女には早い冗談だったと気づいたが、或いは老人の記憶があるのならそうでもない…か?
いやいや、幼女に対して不謹慎だった。
あのなぁ、メル
頭を掻きつつ俺はメルに言った。
俺は一人で世界を旅しているんだ。
子連れで旅なんてできねぇんだよ
何も連れていけとは言っていないぞ
私は帰りたくないと言っただけだ
!
別にどこかの街の余裕のある孤児院の
世話になっても良かったのだが…
もしかして私と旅をする事を
考えていたのか?
んな訳ねぇだろっ!?
だいたい幼女を連れて旅なんか
したら時間も倍以上かかるだろうが
私を連れていけば時間がかかる
事まで考えていたのか?
だーかーらー
恩は必ず返す
は?
別にそんなの構わねぇよ
恩って程のことなんかしてねぇし
違う
此度の事も恩だが、
これから恩を返すから…
だから…
……………
それはつまり何か?
やっぱり連れて行けってことなのか?
必ず役に立つようになる
まるで捨てられる子犬のような目をして見上げてくるメルに俺は完全に沈黙した。
こういう場面で、その表情は卑怯だろうが…
だったらまずは魔導を覚えろ
それなら子供(ガキ)でも使えるからな
しかし、私には魔導の知識は…
俺が教える。
ちゃんとしたやり方をな
お前がか?
お前は呪文を全て唱えられ
ないのではないのか?
それだから省略して…
バーカ、
省略形で唱える方が格上なんだよ
そうなのか?
お前にはきちんと呪文と印も
教えてやるから、俺と一緒に
行きたきゃ必死で覚えるんだな
そうだ。それも悪くはない。
知り過ぎたが為に何の感動もない、つまらない日常を繰り返すよりも、下手に魔導を極めてしまったが為に何をするにも面倒臭いと感じるよりも、もしかしたら面白いかもしれない。
それに、せっかく長い時をかけて習得した魔導の極意を誰かに伝える事で、見失っていた気持ちを取り戻せるかもしれない。
否、既に俺の心は動き始めている。
何事も面倒で怠惰な日々を送っていた、少し前の俺から。
解った、ガイ…
否、師匠
何だ、そりゃ?
普通にガイでいいし
メルに答えながら俺は決めていた。
幾十度と転生を繰り返し極めてきた知識をこいつに教えていこう。それは己の知識を増やすよりもずっと有意義な気がする。
ガイ
何だ?
私は光の女神の事も知りたい
あの時、ディートハルトが唱えた
祈りは優しく、あの光は暖かかった
それは以前のメルならば…自らを破壊神の司祭だと思っていた彼女だったならば抱くことのなかった希望だろう。
だが、色々な事に興味を持つのは良いことだ。
そうだな。
それこそ、今度ディーに会った時に
でも聞いてみりゃいいんじゃねぇか
お前はこれからは何でも
できるんだからな
そうだな
それじゃ、さっさと行くぞ
うむ
メルの返事を聞き、俺は晴れ渡った街道を颯爽と歩き始めた。
〈END〉