葵 香子

嫌な天気だな~

エアボードと呼ばれる、空中を滑るスケートボードのような乗り物で人の合間を縫って《学区》の道を駆けながら憂鬱そうに呟いたのは葵香子であった。


今にも雨が降り出しそうな灰色の雲が立ち込め、空は陰鬱な模様を呈していた。吹く風も気持ち悪いくらい生暖かい風で、確かに嫌な天気であった。


だが香子には普通以上に憂鬱な天気に思えた。


それは香子の心の中で渦巻く焦燥と不安。


約10分前、蘇芳雅から真相を明かされた香子は父親の宗二郎と今後どのような方向性で蘇芳親子の関係を修復していくかということについて話し合うため、学園に向かおうとしていた。


しかし、香子がこのエアボードに足をかけた途端、その宗二郎から連絡が入ったのだ。




香子のもう一人の観察対象であった緒多悠十が御縞学院の中に入ったあと、のMINEの執行システムが起動したのを確認した、と。




基本的に学園の生徒の位置情報は学園のメインシステムによってMINEを頼りに常に観察が可能となっている。


もちろん日常的にはそのデータは即刻削除され、プライバシーの保護が徹底されているのだが、今回の場合、悠十と怜だけは位置情報を保存されている、というわけである。

特に悠十は御縞学院の暗部に接触したばかりである。



御縞学院の中で執行システムを起動させた、つまり戦わなくてはならない状況に陥ったということがどれほど緊急であるかは火を見るよりも明らかなことだ。



そして今、香子は現在学園に戻ることはせずに御縞学院の本社へと向かっているのである。


そこを曲がれば本社の前、という角でエアボードのブレーキボタンを思いっきり踏むと、エアボードから飛び降りながら端を踏み弾いてエアボードを立てた。


収納ボタンを押して手の平サイズのキューブ状にまで小さくなったそれをポケットにねじ込む。


角に隠れながらそっと本社の出入り口を覗く。


制服を着た警備員は出入り口の両端に二人だが、おそらく私服の覆面警備員もいるだろう。

学年長である香子は悠十同様暗部に面が割れているし、正面から入るのも厳しいだろう。

かといって裏口の警備が手薄になっているほど甘い組織でもなかろう。


香子は制服のポケットから鮮やかな青いMINEを取り出して耳に装着すると、すぐさま起動し、執行システムを立ち上げる。


身体がベールに包み込まれ、感覚が研ぎ澄まされていくのを感じる。



それと同時に二丁の拳銃が両手に生成される。



その一対の拳銃は名を《二度の啼鳥(チャープ・トワイス)》といった。


香子がME装備技師(ウィザード)として自らデザインしたオリジナルの装備である。

FOS(First Omission System)と呼ばれる執行システムと同時に生成が開始される呼び出し省略機能に加え、自分の声により装填する銃弾を登録されたものの中から選択する機能を搭載している。


右側の拳銃には
完全被甲弾(フルメタルジャケット)、
麻痺弾(パラライザー)、
爆発弾(エクスプローダー)。

左側の拳銃には
照明弾(フレア)、
曳光弾(トレーサー)、
射出錨(ワイヤーアンカー)。

といってもこの性能を完全に使いこなすにはそれぞれの銃弾の特性を完全に理解した上で、素早い状況判断が要される。FOSも音声操作も高度な技術の上で成り立つ実戦向き装備であり、彼女がただの学生ではないことの証明ともいえる。

そんな彼女が。


焦燥と不安を感じ得ずにはいられないほど状況は切迫しているのだ。


香子はME装備のマーケットを呼び出すと光学不可視チョーカーをダウンロードする。


深紫色のチョーカーを生成し、首に巻くと、光の屈折を歪めるそのチョーカーの効果で香子の姿は見えなくなった。


足音を殺して出入り口に近づくと、学院の生徒が入るのに合わせて自動ドアが開いたタイミングで学院内に入り込む。


フロントでは数名の生徒と講師、事務員が動き回っている。

香子のことが見えていない彼らは彼女のことを無視して行動するため、意外と移動するのが難しい。

見えていないとはいえ彼女の実体は存在するからである。


慎重に周りの人々の動きを予測しながらなんとか受付の奥にある事務室のドアの前まで到達する。


受付員がドアを開けると同時に事務室に入り込むと、誰も座っていない座席に設置してあるPCを気づかれないように注意をしながら操作し、学院の建築設計図を探し出すと、手早くMINEの臨時メモリーにコピーする。


そして入ってきたのと同じように事務室を出ると、人気の少ない角に入り込む。


先ほど盗んだデータを立ち上げると、この高層ビルの設計図が視覚ディスプレイに表示される。


ほとんどが講義室や講師室、実技室など一般的な塾に必要な空間が記されていたが、一階よりも下、つまり地下にあたる部分に名称が示されていない巨大な空間があった。


そこに続いている道は一本しかなく、しかも幾重にもセキュリティがかけられているようだ。

そこからはおそらく隠密で入るのは厳しいであろうと判断した香子は他の突破口を思案する。

葵 香子

やっぱりやらなきゃダメか……。

香子は聞こえない程度につぶやきながら地下へと続いている通気口ダフトという文字を指で弾く。


見上げるとちょうど通気口があった。
というより無意識に通気口のある位置を選んでいた、という方が正しいのかも知れないが。


香子は誰にも見えはしないにもかかわらず渋い顔をした後、サイレンサーを生成して《二度の啼鳥》に取り付ける。

葵 香子

フルメタルジャケット

そうコールして通気口に取り付けられた格子を留めているボルトを二つ、右側の拳銃で撃ち抜く。

葵 香子

ワイヤーアンカー

再びコールして左側の拳銃の引き金を引く。

勢いよく射出されるワイヤー付きの錨を格子に引っ掛け、もう一度引き金を引いて体を引き上げて通気口に入り込む。


薄暗いダフトの中で香子は光学不可視チョーカーのスイッチを切り、チョーカーを還元した。

葵 香子

わたし~通気口ダフトって苦手なんだよね~。

そう呟いてから香子は顔を引き締めると、進み始めた。

* * * * *

葵 香子

この辺かな~?

数分後、香子は視覚ディスプレイに表示された設計図を見ながら呟くと、ダフトのボルトを右手の拳銃で撃った。ワイヤーアンカーをしっかりと括り付けると、ダフトに開けた穴から勢いよく飛び降りた。












ワイヤーの張力で自由落下の勢いを殺しながら静かに着地した香子の眼前には目を疑うような情景が広がっていた。











そこにいたのはカプセルに閉じ込められている11人の男女、眠ったように横になっている怜と長髪の科学者らしき男性、そして右眼あたりに底の見えない穴を穿たれ、体を十字架に縛られている悠十だった。



右眼に穿たれた穴からは水色の粒子のような物が流れ出し、空中で円を三つ組み合わせたような形の結晶に成型されていく。

葵 香子

ゆうくん!

香子が駆け出すといつか見た暗部の男たちが大剣を振るいながら行く手を阻む。

ワイヤーアンカーで体を引き上げながらそれらをかわし、右側の拳銃から実弾であるフルメタルジャケットで威嚇射撃を連続で打ち込む。

葵 香子

フレア!
パラライザー!

ワイヤーアンカーを切り離して自由落下する中、連続でコールすると、左側から照明弾を床に向かって撃ち、動きが止まった暗部の男達全員に麻痺弾を放つ。


全員が体の自由を奪われ倒れると同時に着地する。


もう一度悠十の方へ駆け出そうとした香子が見たのは、粒子の奔流が途切れ、完全な結晶となったそれを長髪の科学者が掴み取る瞬間だった。



何か、とてつもなく、悪い方向に物事が進みつつあるのを香子は感じた。

分離実験―Dividing Plan―(5)

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