老人は、シオンの耳元で囁き続ける
酒で酔って、介抱されているフリをして
もたれかかって歩きながら――

シオン、こう言うはもののな、

おれはおまえが憎くはない

死んだ母親にそっくりで
かわいくってならないのだ。

憎いやつなら何も
おれが仕返しをする価値はないのよ

だからな、食べる事も、着る物も
何でも、おまえの好きな通りにしてやる

おれが不自由になったとしても、
ほぼ全ての自由をお前にやろう

だがな、ただあればかりは
どんなにしても
許さんのだからそう思え。

おれも大分年だ。
おれが、死んだあとで…と
思うであろうが、

そううまくはさせやあしない、

おれが死ぬときは
貴様も一緒だ

シオン

もう、いやです!
止めて下さい……っ!

瞬間、シオンは
もう、その恐ろしい声と
最期の言葉に、耐えかねて

力を込めて老人が
押さえている肩を振り放し、
脱兎の如く、彼から逃れようとする

止まれ!

シオン

アートさんと、
一緒になれないなら、
きっと、いつか、こうしてた

見る間に、橋の柵上に彼女は飛び乗る

川に身を投げる気か!?させない!
おれの邪魔は……誰にもさせない!

シオン

―――来ないで、

老人は、狼狽えて、
彼女を引き戻そうと飛び掛かる――

しかし、

まだ酔いが残っている足取りで、
さらに降り積もった雪に
足を盗られてしまい――

わっ……

シオン

叔父さん!?


霜を踏み、
足が滑り、
全身が浮遊する、
身体が、捕られる

――刹那、

大きな水柱と轟音が立ち、
彼は水の中へ落ちてしまった

アート

―――――っ、はっ……

すぐさま救護のために
橋まで駆け寄る巡査を見て、駆け寄る

シオン

アートさん……っ……!

息はせわしく、
一声呼び懸けて、巡査の胸に額を埋める

人目をも忘れて、
ひしとばかりに縋がり着く。

アート

―――――――――

蔦をその身に絡めた
枯木のような青年は

しかし、冷然として語らない。

堤防の上に立ち、
角燈を片手に振り翳かざし、
水を見下ろす

冬の寒さで、
川も白く凍り付いている

見渡す限り霜白く
墨よりも黒い水面。


激しい泡が
吹き出しているところこそ
老夫が沈んだ所なのだろう。



薄氷も、その付近だけ
亀裂が走っている。

アート

――――!

巡査はこれを見て、
躊躇するのは、一瞬のこと

手に持っていた角燈を置く、

氷の中に、花が埋まっている。

その花から
彼女との思い出が連想され、

思わず、身体が止まる

シオン

――アート、さん……っ!

アート

シオンさん……

気付くと、
彼女は自身の腕の中にいる。

自身の行動を止めに
来たのだろう

ゆらぐばかりに動悸が激しい、

彼女の心音と自分の心音は、
ひたと合っていて、

なんと放れがたいことだろう

しかし、両手を静かにふり払う

アート

……っ、…退いて、ください

シオン

どうするおつもりですか…?

シオンは、腕の中から
巡査の顔を見上げる

アート

助ける

シオン

叔父さんを?

アート

叔父でなくってだれが落ちた

シオン

でも、アートさん

 巡査は厳然として、

アート

職務だ

シオン

だって、アートさん

 巡査はひややかに、

アート

職掌だ

シオンは少し息を吐くが、
すぐ顔を蒼くして、

シオン

それでいて、アートさん

あなたは
ちっとも泳ぎを
知らないではありませんか

アート

職掌だ

シオン

それでも、それでも……!

アート

―――――っ!

アート

いかん、だめだもう、

アート

僕も殺したいほどの老爺だが、職務だ!

アート

―――諦めろ

彼女を払う手を、彼女は包む。

シオン

いけません、いけませんわ

アート

――諦めろ

それでも彼女は、彼を止めようとする

シオン

誰か、来てくれませんか!?
助けて……助けて下さい…!!

叫んでも、叫んでも、
寒い冬の深夜に歩く者など皆無だ

アート

放せ!

シオン

待って…

アート巡査は、声を荒げて、

 決然として、力で彼女の手を振りほどく、


咄嗟に、巡査は一躍して、
棄てるかのように身を投げた

そして、彼女は――

”篤き巡査アート・ライタス”


社会から与えられている仕事を
完璧にまっとうしようと、

あくまでその死ぬことを、
むしろ殺して欲しいと願っていた
悪魔を救おうとして

氷点の冷、水凍る夜半に泳ぎを知らない身で、
命とともに愛を棄てた。

アート巡査は、仁のある青年だった

なーにーがっ!
仁がある男だ!世も末だな!?

まあまあ
でも、そんな一面もあったんだね彼

お前、アイツの被害者なんだから
もっと怒れよ!!

確かに、酷い事を言われた――でも、

でも、じゃねえよ残忍苛酷な奴だ

大変な環境で、それでも働こうとする
お前のことでさえ、
規則だからと懲罰し、

更には、城に仕えていたけど
解雇されて途方に暮れていた母と子を、
厳責したんだろう?

全員で、アイツのこと
称賛しやがって

でも、今、助けてもらって、
しあわせだから、問題ないよ

な、なんだよ……

お前が、それでいいなら、
まあ、いいけど

うん、それでいいよ

なんかすっげぇ、調子狂う…

いつもありがとう

おう、

はーい、追加追加―!!

――俺の金だからな……?

夜行巡査

泉鏡花

(明治二十八年四月「文芸倶楽部」)

冷酷巡査の恋末路(夜行巡査⑥)

お気に入り(6)
facebook twitter
pagetop