その晩、俺は眠れずに考えていた。

 人の家庭の事情に対して、俺に何ができる?
 ティンカーベルの味方になることだけが、唯一できることなのか?

 容易くなんかない、と言ったノルンを思い出す。
 容易くない、どころか、無理だ。
 ティンカーベルを救うなんて、俺には無理だ。

 ――でも、彼女は明日にはまた死んでしまう。

 俺はごろりと寝返りをうった。
 なにか……方法はないのだろうか。

 7月13日、昼休み。

 この日、ティンカーベルは午後の授業をフケて、屋上で泣いている。
 そして、俺の目の前で飛び降りる。

 つまり、じっくり話をするなら、午後の授業を俺もフケるのがいいだろう。
 その前にやっておくべきことはなんだ?

友人

おーい、菊池


 いつもの友人が心配そうに声をかけてきた。

友人

今日の校内新聞の号外、見たか?

雄哉

あー、ゴシップしか載せないやつだろ。興味ない

友人

お前、それだから葛城のこと知らなかったんだろ。友達思いの俺が、号外もらってきてやったぞ

雄哉

はいはい、ありがとうございます


 友人から校内新聞の号外を受け取って、俺は適当に目を落とし――そこで、呼吸が止まった。

 ティンカーベルが男と繁華街を歩いている写真が載っていた。

友人

だから、葛城はやめとけって……

雄哉

悪い、俺、午後の授業、フケるわ。後よろしく

友人

お、おい、菊池!?


 号外を友人に押し付けて、俺はスマホを握りしめ屋上へと走った。

 ティンカーベルは、きっと泣いている。

 息を切らせて屋上の扉を開けると、イヤフォンを耳に入れて、ティンカーベルは空を見上げていた。
 明らかに泣いていたような横顔。
 けれども、俺の足音に気づいて、ティンカーベルはイヤフォンを外した。

ティンカーベル

菊池センパイ。……どうして

雄哉

葛城こそ、授業サボりか?

ティンカーベル

……今日付けで停学。だからサボりじゃない

雄哉

……


 彼女は青い空を見上げて手を広げた。

ティンカーベル

授業、受けたかったなあ。大好きな古典の授業だったのに

雄哉

……

ティンカーベル

何も、聞かないんだね


 ティンカーベルはどこか安堵したように微笑んだ。

ティンカーベル

あたし、菊池センパイのそういうところ、好きだな


 俺は手を握りしめた。唇を痛いほど噛み締めた。
 手のひらはすぐに汗ばみ、俺は強く目をつむる。

雄哉

俺も、葛城が好きだ


 口にした声は上ずり、どうしようもなく震えていた。
 彼女は驚いたように俺を見、それから笑った。

ティンカーベル

ありがと


 それが彼女の答えだった。

ティンカーベル

でも、もう、この世界もつまらなくなっちゃった

雄哉

……そんなこと、言うなよ。もっといろんな曲が聞けるだろ

ティンカーベル

いっぱい聞いたよ。でも、そんなんじゃ、あたしの世界は何も変わらない

雄哉

葛城


 俺が一歩、ティンカーベルに近づいたとき、彼女はひらりと柵を乗り越えた。
 まだ放課後になっていないのに。
 早い。まだ早すぎる。

 俺は、まだ何も言えてない。

雄哉

……何をするんだ

ティンカーベル

空を、飛ぶのよ


 これじゃあ、同じことの繰り返しだ。
 何か言わなくては。どうにかして止めなくては。

雄哉

ティンカーベル。死ぬなよ


 咄嗟に出た言葉に、彼女は驚いたようだった。
 軽く目を見開き、嬉しそうに笑った。

ティンカーベル

空を飛ぶからティンカーベルか。随分詩的なんだね。でも

雄哉

死ぬなよ

ティンカーベル

菊池センパイに、何がわかるの?


 俺はありったけの声を出して叫んだ。

雄哉

苦しんでることも、辛いことも、それでも曲を聞きながら笑ってることも! 俺は見てきた。葛城のいろんな表情を見てきた!


 ティンカーベルは驚いたように俺を見た。
 俺は一歩近づいて、彼女に手を差し出す。

雄哉

葛城が好きだ。キミが死んだら、俺は悲しい

ティンカーベル

菊池センパイ……

雄哉

戻ってこい。そばにいることなら、できる。味方でいることなら、俺にだってできる


 ティンカーベルは目を伏せた。軽く首を振って、髪を払う。
 それはもう、決断したかのような、仕草。

ティンカーベル

あたし、菊池センパイと会えて、きっと幸せだった。――じゃあね


 まるで、また明日会うように、ティンカーベルは空を飛んだ。
 とん、と屋上の床を蹴り、青の中に身を投げ出す。

雄哉

馬鹿、やめろ――!


 伸ばした手は届かない。叫んだ声も届かない。
 俺の目の前で彼女の姿は掻き消えた。

 俺は手すりを叩く。
 まだ放課後にはなっていない。どうして? どうしてだ?

雄哉

ノルン! いるんだろ、ノルン!?


 喉から血が出そうな勢いで叫ぶと、手すりに腰掛けてノルンが現れた。
 彼女も複雑そうな表情をしている。

雄哉

どうしてだ!? どうして時間が変わった? もう少し、時間があったら、もしかしたら助けられたかもしれないのに!

ノルン

……歴史を変えたのはキミだよ


 ノルンは小さなため息をついた。

ノルン

確実に彼女の中の歴史は変わった。それで、今までの三日間と誤差が出たんだろうね

雄哉

……


 俺はずるずると崩れ落ちた。
 彼女の中で何かが変わろうとも、結果が同じならば、結局同じだ。
 俺は、また彼女を救えなかった。

雄哉

……無理だ


 吐き出した声は弱々しかった。

雄哉

人を一人助けることも、俺にはできやしない。容易いなんて話じゃない、無理だ


 ノルンは黙って俺の言葉を聞いている。

雄哉

俺も彼女と一緒に空を飛べば――


 大きな音がして、続いて痛みが襲ってきた。
 ノルンが俺の頬を平手打ちしたのだ。

ノルン

馬鹿!


 ノルンは泣きそうなくらい、顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。

ノルン

馬鹿、馬鹿、馬鹿! あたしはキミに賭けたんだ。それならやり通せ!

雄哉

……ノルン?

ノルン

キミは助けるって言ったじゃないか! 助けてよ、彼女を助けてよ!

雄哉

……

ノルン

まだ、一回残ってるんだ、最後まで諦めるな!


 ふと、耳に彼女が教えてくれた曲が蘇った。

 キミはあまりにも多く、あまりにも若くして、残酷なものを見すぎてしまったから――

雄哉

ティンカーベル……


 無理だと自覚がある。
 それでも助けたい思いは消えない。
 誰に止められたって、この想いは覆せない。

 キミの味方でいよう。
 キミの世界が、キミから背を向けようとも。

雄哉

ノルン、失敗しても恨むなよ


 ノルンは俺の顔を見上げた。

雄哉

まだ3日残ってる。理由はわかった。それならやれるだけのことをやるだけだ

ノルン

菊池雄哉……


 ノルンはようやく笑顔を見せた。
 どこかでその笑顔に似た笑顔を見たことがあるような気がした。

ノルン

うん。最後の3日。お願いします


 俺はノルンの頭をくしゃりと撫でた。
 ノルンは嬉しそうに笑う。

ノルン

あたしが選んだのがキミで、よかったと思えるように

雄哉

ああ


 なりふり構っていられない。
 全力っていうのはそういうもんのはずだ。

雄哉

行ってくる


 ノルンが指を鳴らす。
 俺は妙に響く、その音を聞いて、最後の三日間へ身を躍らせる。

雄哉

……待ってろ、ティンカーベル


 今度こそ、お前を止めてみせる。

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