絢鞠 国士

対象……負傷……逃亡中。

 立花研究所情報課本部で絢鞠は静かに報告した。ノクトビションによってびりびりになった上着と全く同じ上着を新調した彼は、自分より幾分か背丈が低い能美を見下ろすように見ている。もちろん能美の身長が低いのではなく、彼が高身長なのである。

能美 秀星

ふん……なるほどネ。ということは今のところ何の成果はないと、そういうことダネ?

 嘲笑するように、鼻を鳴らした能美は報告書の束を机に放った。

能美 秀星

状況は芳しくないネ。一刻も早くコードαを確保しなければ実験の続行は不可能になるヨ。

 自分の被験者が逃亡したことについては棚に上げ、悪びれることなく能美は不平を述べる。

能美 秀星

そもそも、情報課の要求する予算は大きすぎるんじゃないかネ?
被験者の確保もまともにできない者どもに私の研究予算が削られていると思うと腸が煮えかえるようだヨ。

絢鞠 国士

………………。

 絢鞠は言葉も、表情もなく能美の言葉を聞き、その神経質そうな眼を見つめた。

 絢鞠にとって、目の前の科学者を素手で殺すことは簡単なことである。蟻を殺すのと変わらない。

 しかし、彼はそれを実行することはない。なぜならそれが契約だからである。情報課としてこの立花研究所で雇われている以上、力の差などは関係なく、能美が雇っている側であり、絢鞠が雇われている側なのであるから。

 そしてその契約は破ることはできない。

 なぜならもし彼が契約を故意に破ることがあれば、彼は死ぬことになるからである。

 絢鞠はその有能さゆえに危険な存在であった。そしてそれを恐れた情報課のトップは彼に「首輪」をつないだ。

 ボタン一つで脳内な神経回路を焼き切る装置。

 それが彼の「首輪」である。

 ゆえに絢鞠にとって契約は絶対である。心の底から見下している相手であっても、殺すことはできない。

 だが、彼の不快な口調でこれ以上の罵倒を受けることが耐え難いことには変わりはない。

 ゆえに早急に彼の口をふさぐ必要がある。

 そのためにはあの被験体を直ちに確保する必要がある。あの赤い目をもつ男、いや、少年を。

 だが、あの血液操作の能力は厄介だ。おそらくだがMulti Elementが血液に溶け込ませてある。

 絢鞠はMulti Elementを操作する能力を持ち合わせた人間ではない。ゆえにあの血液操作の能力を自ら能力を使って阻止することはできない。

 ただし「自ら」に限っての話だ。

絢鞠 国士

早急……解決……可能。

 絢鞠は静かに言ってその部屋を出る。

能美 秀星

ふん……所詮は戦うしか能のない連中だネ。

 部屋に残された能美は絢鞠が出て行った後の部屋を眺めて悪態をつく。

能美 秀星

まぁ、これで蓼科も私の研究成果を認めざるを得ないだろうネ。
情報課の実力をも凌駕する力!
これこそ科学!これこそ進化!
被験体に逃げられたのはまぁ失態ではあったが、データは手元に残っているからネ……。

能美 秀星

これを売り込めば海外の軍部は私の思い通り……金、名誉、権力……すべて私のものだ……ヒヒ、ヒヒヒヒヒ!

 狂気じみた目を輝かせ、能美は満足そうに独り言ちた。

 ブルーライトに照らされたその姿はまさに科学が生み出した悪意そのものだった。

* * * * * *

蓼科 新介

そう……ですか。分かりました。こちらで回収します……いえ、調査はこちらで行いますので。失礼。

 そっと受話器を置いた蓼科は眉間を指で押さえた。

蓼科 新介

コードα……本当に不死身の研究のための被験者なのか?

 不死身の研究自体すら本当に正しいことなのかもはっきりしないのに、不死身以上に危ういように思える。

 情報課の報告によればコードαは血液を操作する能力を行使して情報課トップの成績を持つ絢鞠を退けたという。

 なぜそんな能力を持っているのか。

蓼科 新介

どーも、君は信用ならないね?能美くん?

 そう言った後に、たった今届いた彼に頭を悩ませる知らせのことを考える。

 その知らせとは蓼科の憂慮していた中で最悪の部類にはいるものであった。

 山道の脇で死体が発見された。
 血液を抜かれて真っ白になった死体が。

 正確な身元確認はまだではあるが、その死体のそばに落ちていたのは専門学校の学生証だった。

 そこに示されていた名は蓼科の進めている《自由七科》にも登録されている名前であった。

両沢 泪

香具山美術専門学校
両沢 泪

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