「純粋さ」とはなんだろう。
 人々はよく、悪に対する無知さを「純粋」と表現する。

 しかし、それが本当に正しいのだろうか?
 それならば悪意なく虫を踏み潰す子どもと、虫を愛でる老人。どちらのほうが純粋そうだろうか。斜に かまえている人間でない限り、大抵は後者を選ぶだろう。


 いかなる些事な現象も、玉石混交。宝石も汚い石も雨のように降ってくるこの世の中で、どちらを掬い取るか。どちらを磨きたいのか。それによって、純粋にも不純にもなれる。
 わたしは一体、どちらを掬い取るのだろうか。

アベル

いい気味だ

 アベルの吐き捨てた言葉に血の気が引く。

 どうして「あの人」がこんなところにいるの?

 「金のプリマ」として一世を風靡した歌姫、セレスティーヌ。そんな彼女が見るも無惨な娼婦となり果てている現状を、どうしても受け入れがたかった。
 


 アベルとセレスティーヌの絡みあう視線は、えもいわれぬ張り詰めた糸のよう。


 なぜ、接点のなさそうな二人が知り合いなの? 
 二人の関係が気になって仕方がない中、セレスティーヌはついに目に涙を浮かべた。

セレスティーヌ

い、いや、見ないで!! 
なんで、アベルがここにいるの!?

 彼女の声は、蚊の鳴くような声であった。カルメンを演じた際に聴いた、張りのある凛とした声とは程遠い代物で思わず耳を疑う。


 わたしは彼女を見つめた。ただただ、観察するようにじっと。すると、左手首に赤い十字架の傷が目に入り、吐き気を覚えた。


 アベルが探していた女性は、彼女だったのか。胃の中に重石が乗せられたように気分が悪くなる。

アベル

さてな、奇遇も奇遇。
別にお前と会いたくて邂逅したわけじゃない

アベル

それにしても、その毒りんごみてぇに汚い唇から俺の名前が出るとはなぁ? 

まあ、いい。
錆びることのないといわれている金が錆びた姿は実に見ものだ。

今度からは金錆(かなさび)の淫女とでも呼んでやろうか?


 陰を落としたアベルの目はまっすぐと金のプリマに注がれる。しかし、口はニヤリと弧を描いており、白い陶器の歯がのぞいている。

セレスティーヌ

わ、私! こうなりたくて、なったわけじゃないの。

こ、声が、出なくなって、歌が……歌えなくなったの。お願い、私を見捨てないで!

 わっとその場で泣き出したセレスティーヌに、ちくりと胸が傷んだ。たった3年で、こんなにも人は変わるものなのか。

 セレスティーヌさんの肩を抱いていた男が逃げいていくのを尻目に、3年前の彼女の麗姿を思い浮かべる。

【まずはね、あのお月様のように真っ暗な闇の中でも自分から光を燈せるようにならないといけないの。分かるかしら?】

 ――いいえ、わたしにはもう分からないよ。
 優しくわたしの手を包み込みながら言ってくれた「あの人」の姿を瞼の裏に映し、その残像はふっと消えた。


アベル

見捨てないで、だって? 

最初に俺らメンバーを見捨てたのはお前のほうだろ、セレスティーヌ。

もうお前は終わりだ。物語の幕は降りてしまった! 
お前の人生はせいぜい舞台裏で滑稽譚として締めくくることになるんだろうなぁ。ざまぁみやがれ

 刺々しい無慈悲な言葉に、わたしは耐え切れなくなった。例え彼女がアベルの探し人だったとしても、今は彼女を救いたくなってしまったのだ。


 アベルの背後から出て、二人の間に入り込む。震える両手を少しだけ広げ、

アリシア・バレ

やめてあげて、ください

 と小声でいってみた。

アベル

ああ? アリシア、お前は関係ねぇから下がってろ

アリシア・バレ

た、確かに関係はないけど……か、彼女の事情も、聞いてあげて。

それに、アベルの探し人は、彼女なんでしょう? なら――

アベル

違う

アリシア・バレ

え?

アベル

こいつじゃねぇよ、俺の探し人は。

こいつは紛い物。確かにセーヌ川色の瞳と、左手首に十字架の傷があるが……違うんだ

 どういうことなの? 
 広げていた両手が自然と降りていく。
 彼女が探し人でないなら、アベルと彼女はどういう関係なのか。

 置いてけぼりの状態のわたしは混乱のあまり、目を伏せてしまった。

 アベルはふんと鼻を鳴らして彼女をひと睨みした後、がさつにわたしの腕を引っ張って

アベル

もう帰ろうぜ、気分を害した

 と言い放った。

アリシア・バレ

え、あ、ちょっ


 連れられるがままに転けそうになりながら、後ろ歩きの状態で彼女から離れ行く。彼女は絶望したような目で、わたしとアベルを見ていた。

セレスティーヌ

小鳥さん、かわいそう。あなたも、私と同じように――


 彼女の小さな声が微かに耳朶を打つ。聞き返そうとしたが、アベルの引っ張る力が強すぎてかなわなかった。

アリシア・バレ

アベル、アベル! 痛い、です

アベル

痛くねぇだろ、嘘つくな

アリシア・バレ

い、痛いんだよ、わたしはっ! 人間は、ちょっとっしたことで、痛むんだよ。心も、体も……分かってよ


 ああ、そうよね。アベルは人形だから、分かりっこないよね。諦めと悲しみのまじった言葉が、アベルの腕の力を緩めた。

アベル

…………


 アベルは無言で自身の腕を見やる。そんなに痛かったのか、と言いたげな目であった。やはり、無意識に力をこめていたのだろう。

アベル

お前の感情って、難しい


 アベルのその一言は一見暴言ではないのに、まるでわたしの心を突き放そうとしているように聞こえ、返す言葉が見つからなかった。

 あと1ヶ月後に、パリ万博が開催される。
 パリ中は熱気に溢れ、7年前にドイツ軍に入城されたとは思えないほどの回復力を見せていた。


 ただ――ちょうど一年前に、政治のいざこざがあった。そう、王党派と共和派の確執が激化したのだ。
 一時はまた革命が起きるのでは、と言われ、口の悪いフィガロ紙でもその話でもちきりだった。


 しかし、やはりどこかで帳尻を合わせるフランス。遅れを生じさせながらも工事は進んでいった。

アリシア・バレ

突貫工事ながらも、なんとか形になって良かったわ。

ほら、右岸に建てられたトロカデロ広場も驚くほど完成度が高いし

ニナ

ほんとうね。
ただ、異国人がふえて、意思疎通がたいへんだけど

 ニナは困ったように微笑む。
 例え相手がフランス語を話したとしても、読唇術から会話を成り立たせるニナにとってはさぞ大変なことだろう。

アリシア・バレ

ニナ、変な人が紛れてるかもしれないから気をつけてね

ニナ

ふふ、もう大丈夫よ。
あの時は助けてくれて、ありがとうね。

わたしのおばあちゃんがアリシアと縁があったとは思わなかった

 それはわたしもだ。
 コルマールで唯一親切にしてくれた、花売りのおばさん。まさか彼女がニナのおばあさんだとは思わなかった。


 しかし言われてみれば、花を愛する心、優しげな微笑み方、人に寄り添おうとする態度。ニナのもつそれらは間違いなくおばあさん譲りだろう。


 今回のことで少しでもおばさんへ恩返しができたなら、わたしは誇りに思える。ニナが隣でにこやかに微笑んでくれて、つられて微笑みかけたその時であった。

ベル・デスタン

あぁぁぁら! やっと見ぃつけた!! ジョルジュ、いたわよ!

 耳をつんざくような声に肩が飛び上がる。ニナは微笑んだまま首を傾げた。嫌な予感がしつつも声主に背を向けていると、がしっと肩に重みを感じた。


 聞いたことのある声、相次いで周り一体に薔薇のような香水の香りが充満した。そうっと振り返ると、そこにはやはりあの人がいた。


 ごてごてとしたバッスルスタイルのドレスを着て、派手な羽飾りのある帽子をかぶり、アンティークな眼鏡をかけているお嬢様。アベルを一時的に買い、手放した彼女で、以前よりもなぜか目が綺羅星のごとく輝いている。

ベル・デスタン

ずっと、ずーっと貴方のことを探してたのよ! 
オルゴールのような声をもつ少女……! 

わたくしはベル・デスタンといいますの。ねぇ、貴方のお名前はなんというの?

アリシア・バレ

え、あ、アリシア・バレです。
あの、意味が……

ベル・デスタン

アリシア……! 
なんて素敵なお名前なのかしら。
【誠実な者】の意味をもつに相応しいわ、貴方! 

さあ、ジョルジュ! そんなところで立ってる暇があったらアリシアを辻馬車に乗せておやり

畏まりました、ベルお嬢様

アリシア・バレ

ちょっと、あの! ニナ、助け……

 ニナに助けを求めるが、ニナはたいそう笑顔で手を振っていた。

 待って待って、わたし、今とてもピンチなのだけど! 

 半ば拉致をされる勢いで馬車へ連れ込まれ、カーテンを開けた窓越しからニナを見たが、やはり笑顔で手を振っていた。

アリシア、貴族のお嬢様にみいられたみたいでよかったわ。お幸せに!

 絶対にそんなことを言ってる。
 心がピュアすぎるニナのことだ、きっと楽観的に考えていることだろう。口の動きと表情からそう読めて、馬車の中で体を丸めて頭(こうべ)を垂れた。



 椅子の上で丸まったわたしを見たお嬢様、もといベルさんはいかにも高級感あふれる扇子(おそらく王族や貴族御用達のメゾン・デュヴェルロワ製だろう)で口元を隠しながらこちらを観察している。

ベル・デスタン

まっ、そんなエスカルゴみたいに丸まっちゃって

アリシア・バレ

わ、わわわわたしはエスカルゴです。そう、エスカルゴ……貴方の探してた人とは違うのです。だから馬車からおろしてくだ――

ベル・デスタン

ふふふ面白い方ね。答えはノンよ

 そこで会話は終了した。
 心臓がバクバクするなか、わたしは真向かいに座るベルさんを膝の間から見やる。ああ、美人さん。悪い人には見えなそうだけども、どうしてわたしなんぞを探していたのかしら。


 膝を更にたぐりよせて丸まっていると、ベルさんは憂いのある瞳で馬車の外を見つめながら話しだす。
 それはわたしに向けた言葉なのか、独り言なのか凡そ判断のつきにくいものだった。

ベル・デスタン

パリはここ数十年で見違えるように変わってしまったわぁ。

1845年――そうね、今から約30年前に白物コットンが普及するまで、女性含めて民衆層の服は黒一色だったわ。気分もどん底でしょうね。

そんなパリもようやく、芸術とモードの都という名に相応しい都市になった……

 先ほどの雰囲気とは全く違う、理知的な雰囲気はまさしく貴族のお嬢様のようであった。おずおずと折りたたんだ膝でつくった谷間からベルさんを覗き見る。

ベル・デスタン

不潔に満ちていたパリが、ようやく整ってきた。目まぐるしいその変化を、ミシュレは『清潔革命』と呼んだわ。

うふふ、どんな革命よりもある意味平和的で衛生的よねぇ! イギリスなんぞの『無血革命(※名誉革命)』以上にね! 


そんな時代に生まれたことを誇りに思うわ。ねぇ、アリシア? ふふふそんなおずおずと見なくてもよろしくてよ

アリシア・バレ

あ、えと……ベルさん。その、わたしとベルさんって、住む世界が違うような気がしますけど。あの、なんでわたしなんかを、探していたのですか?

 その問いかけに、ベルさんは

ベル・デスタン

自宅についたら話してあげる

 とにこやかに言い放った。

 それからいくら経っただろうか。外の景色が明らかに見慣れた風景ではないことに気づく。
 ここはもしや、高級住宅地なのでは?


 その証拠に、エトワール凱旋門が遠目に見えた。
 凱旋門を中心として放射状に広がる12本の通り。 この形が星のように見えるため、星の広場(エトワール広場)と呼ばれているのだとベルさんからご説明を預かった。


 ベルさんは、考える素振りを見せずさらりと答えるため、博識なのだろうということがうかがえる。あの勢いさえなければ完璧なのに、と思ってしまった。

ベル・デスタン

さあ、ついたわ。いらっしゃいな

 やはり、貴族のお嬢様らしい。高級住宅地にゆうゆうと聳え立つ一軒家に、足が竦みかけた。


 マルソー通り沿いにあるベルさんの自宅の広さに驚かされつつお邪魔すると、裏庭には噴水まであることに気がついた。そのまま階段を登り、ベルさんの自室へ通される。


 ベルさんの自室に、肝が冷える想いを抱く。無数に並べられる、コレクションの数々。
 それはアベルに似た人形から、標本、生きた動植物、異国の芸術品まで雑多にひしめいていた。

ベル・デスタン

まあ、ソファに座ってちょうだい。
ここなら、誰も話を聞かれることはないから安心ね。ふふっ

 るんるんと上機嫌にそう言うと、ベルさんは召使にもってこさせたティーをこちらへ勧めてきた。

 ちょびちょびと飲んでみると、むわっとハーブの香りが鼻腔を刺激してきて、すぐにカップをソーサーに置いた。

アリシア・バレ

す、すごいコレクションの数ですね

ベル・デスタン

ええ、博物学と標本趣味に入れ込んだらこのざまよ。

でもね、生死構わずどれも愛おしいの! 

ほら、これとか見てちょうだい。エジプト産のミイラよ! 
このかっぴらいた眼球、死ぬ直前に何を見たのかしら……ああ、ゾクゾクしちゃうわ

アリシア・バレ

あ、あの……

ベル・デスタン

まあ、今ほしいミイラはインカ帝国の王だったアタワルパ王のミイラだけども! 
うふふ、なんて愉しいのかしら

 ミイラとワルツのステップを踏み出すベルさんに度肝を抜かれていると、ベルさんはハッと我に返り、ミイラを所定の位置にそっと置いた。

ベル・デスタン

ごめんなさい……予め言っておくわ。わたくし、ピグマリオンコンプレックス(人形偏愛症)ではないから安心してちょうだいね。

――ええ、ええ、わかっているの。わたくしって変わってるわよね。ええ、だから生きた女の子のお友達がいないの。死んだ女の子のお友達はいるんだけどもね。彼女、エリザベスっていうの。見る?

アリシア・バレ

あ、結構です……。その、本筋はもしかして、アベルのことと関係があります?

ベル・デスタン

そう、そう、そうなの! アベルのことよ!

アリシア、あなたをわたくしのコレクションにしたいって話もあったけど、それはまたあとで。

わたくし、貴方と同じようにアベルに惹かれて買ったのだけど、すぐに手放したわ。なぜだと思う?

 しぃんと沈黙が過る。あの時、ベルさんは飽きたから、と言っていた。けれども、違う理由があったというのだろうか。


 わたしからの答えを待たずして、ベルさんはわたしに顔を近づけ、低い声で囁くように言った。

ベル・デスタン

いわくつきなのよ、あの人形。
呪いの人形に違いないわ

アリシア・バレ

……え?

 そんなわけ、ない。その証拠に、わたしはアベルを買ってもう数週間経つというのに、呪いのようなものを感じた覚えはない。むしろ、助けられた部分もあるというのに。
 信じられない顔でベルさんを見つめ返す。

ベル・デスタン

あらまっ、瞳が揺れて可愛らしい!

 少しふざけた口調で言うベルさんの袖を引っ張り、わたしは首を振りながら必死に否定した。

アリシア・バレ

いいえ、いいえ、違います。あ、アベルは、呪いの人形なんかじゃ――

ベル・デスタン

ふふ……それならなぜ、わたしくしがアベルを買った夜に、婚約者が急死したのかしら

アリシア・バレ

え……?

ベル・デスタン

なぜ、その2日後にアベルは動きだしたのかしら

アリシア・バレ

…………

ベル・デスタン

そしてなぜ、その次の日にアベルに冗談で『愛してるわ』と言った途端、首を絞めてきたのかしらぁ?

 徐々にベルさんの口調が変わっていく。最初はころころと鈴を転がすような声で話していたというのに、今となってはカラカラと乾ききって濁った声になっている。


 眼鏡越しに視えたベルさんの瞳。メラメラと怒りの炎を燃やしている。それが誰に向けているのか分からない。それが怖くてならなかった。

ベル・デスタン

別にわたくしはアベルを好いていないわ。

ただのコレクションの一部として買っただけなのに、なんて可愛くないやつなのかしら。

わたくし、従順でお利口ではないコレクションって、大嫌いですの

 生死関わらずね――そう言い放つベルさんは、恍惚とした瞳をわたしに向けた。

ベル・デスタン

ねぇ、アリシア。貴方もそう思わなくて?

アリシア・バレ

な、なにが言いたいのです?

 震え声でそう問うと、ベルさんはパチンと扇子を閉じて

ベル・デスタン

長ったらしく言って悪かったわ

 と言い、血のように真っ赤な唇をつりあげた。

ベル・デスタン

単刀直入に言うわ。わたくし、アベルが憎いの。

ねぇ、アリシア、貴方も相当傷つけられているのでしょう? 可哀想に……一緒に、アベルに復讐しない?

 サロンでお茶しない? といった軽い誘い文句のように言葉を吐き出すベルさんに、鳥肌が立った。

第14幕 標本趣味のお嬢様

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