それは、リフィーがどこの誰とも知れぬ女性から宝石を受け取り、その記憶を失ってから……、一週間後の事。侯爵家からの抗議や連絡は一切なく、表面上は平穏な日々が過ぎていたのだが。

リフィー

きゃああああああああああっ!!

鷹邏

リフィーちゃん! どうしたのぉおおおおぉおおおおおおっ!?

リフィー

は、入って来ちゃ駄目です!!

鷹邏

ちょっ!! お湯かけないで!! リフィーちゃん!! 気持ちはわかるけど、緊急事態なんでしょ!? 一体何が……、あ。

 一日の疲れを癒す為に入った露天風呂で遭遇した、予期せぬ出会い。
 そのせいで生まれた大音量の悲鳴を聞きつけ露天風呂に飛び込んできた鷹邏の目に裸を晒してしまった瞬間、リフィーは湯桶に熱いそれを掬い上げ、彼に向ってぶっかけてしまった。
 確かに緊急事態だが、年頃の乙女として裸は絶対死守!! 死守!! 死守!!

桜鬼

元気の良い嬢ちゃんやねぇ~。

鷹邏

お、桜鬼!?

 湯に浸かる寸前に現れた、正体不明の奇妙な男。
 それが、今目の前で楽しそうに笑っている……、異形の、角の生えている男だった。
 桜鬼と呼ばれた男も鷹邏と同様に湯を全身に浴びており、髪も肌も服も、全部台無し状態になってしまっている。
 リフィーが湯の中に隠れ、大事な部分が見えないように縮こまると、目の前で一方的な大喧嘩が始まった。

鷹邏

こんのっ、野郎ぉおおおおっ!! 見たのか? 見たのか!? 俺の大事な雛鳥ちゃんの玉の肌をっ、見たのかぁあああああああああっ!!

桜鬼

ん? あぁ、空間を繋げる場所を少し間違ってしもうてなぁ。出てきたら、その嬢ちゃんが入浴中だったんよ~。いやぁ、いきなり湯をぶっかけられて参った参った。

鷹邏

当たり前だろうがぁああああああっ!!

リフィー

……。

 突然の不審者こと桜鬼は容赦なく鷹邏からボコボコの酷い目に遭わされ、ポイッ!! と、露天風呂と外を隔てている竹柵の向こうに投げ出されてしまった。
 鷹邏の知り合いである事には違いないのだろうが……、あの異形の姿。

リフィー

あの人も……、妖、なのかな。

 尻尾の類は生えていなかったが、彼には異形の角が二つ。額の両サイドから生えていた。
 服装も、鷹邏が着ている和服を基とした装いだったし、もしかしたら、東方からの友人なのかもしれない。

鷹邏

はぁ、はぁ……っ。今度俺の雛鳥ちゃんの視界に入りやがったら、手加減抜きでぶっ飛ばしてやるからなぁああああ!!

リフィー

あ、あのっ、鷹邏さんっ。わ、私なら大丈夫ですから、これ以上の荒事はっ!!

 あの桜鬼という青年も言っていた。
 間違ってこの場所に現れてしまった、と。
 なら、悪意のないハプニングだったのだ。
 少しだけ裸を見られてしまったものの、リフィーは桜鬼を庇うように鷹邏を宥めにかかった。
 しかし、被害に遭ったリフィー以上に、鷹邏の怒りは凄まじい。追い打ちをかけようと竹柵の向こうに乗り込んで行く鷹邏の服の裾を、無我夢中で掴んで引き留める。

鷹邏

うわっ!! り、リフィーちゃん!?

リフィー

わ、私なら大丈夫ですから、……お願いですから、もうやめてくださいっ。

鷹邏

い、いや、でもね……、ああいう不埒な奴はとことんまで痛めつけてやらないと、また同じ事を……、あ。

 リフィーの方を不満げに見下ろした瞬間、鷹邏は見事に固まった。
 竹柵の向こうでボロボロになっている桜鬼の事も、自分の抱いている怒りも、何もかも。
 視界の中に映り込んでいる……、愛おしい少女の、生まれたままの姿に、思考を奪われて。

鷹邏

ご、ごめんっ!! わ、わざとじゃないから!! えっと、ふ、不埒者回収して部屋に戻るね!! ご、ごゆっくりぃいいいいいいっ!!

リフィー

え? あぁ……、は、はいっ。

リフィー

鷹邏さんのご友人、かぁ……。

 鷹邏が竹柵の向こうに消えてから十分程……。
 リフィーはようやくゆっくりと湯船で寛ぐ事が出来るようになった。
 頭の中にあるのは、鷹邏の友人らしき、あの異形の鬼の存在。
 鷹邏に会いにやって来た事は想像に難くないが、桜鬼という青年は、空間を歪め生まれ出でた闇の中から飛び出して来た時に、気になる事を言っていたように思う。

桜鬼

鷹邏ぁあああっ!!お前のオカンが!!

リフィー

オカン……、って、確か、鷹邏さんの国の言葉で、お母さんの事、よね?

 鷹邏の店で働くようになってから、リフィーは東方の国の文化や言葉に興味を持ち、ある程度なら会話も可能になっている。
 さっきの鷹邏の場合は、レディアヴェールの国の言葉と、東方の言葉が怒りのあまり交ざってしまっていたようだが、リフィーにはその会話の全てが理解出来ていた。

リフィー

鷹邏さんのお母さん……。どんな人なんだろう。

 考えてみれば、以前に鷹邏から言われたように、リフィーは彼の事を何も知らない。
 東方から旅をしてきた、気まぐれで茶屋を開く人。
 店で働いている従業員の女の子達を雛鳥と呼び、困っていれば、必ず助けてくれる、心の優しい男性。
 実は、東方における妖と呼ばれる種族で、その沢山生えているもふもふの尻尾は温かくて、最近ではよくお世話になりながら眠っている。
 人ではない。けれど、リフィーにとって、前と変わらず……、いや、買われる以前よりも、もっと、彼の温かさを知るようになった。
 たまに怖い時もあるし、意地悪なお仕置きを仕掛けてくる時もあるけれど、リフィーは鷹邏の事を知る度に、

リフィー

……。

 駄目だとわかっているのに、心の中に入ってくる、不思議な人……。
 信頼のおける茶屋の主人から、徐々に……、別の存在へと変わりかけているような気がする、あの人の存在。

リフィー

強気に出たかと思えば、すぐに謝ってきたり、慌てたり……。なんだか、私が、というよりは、あの人が私の存在に振り回されてるような、そんな気がする。

 そんな彼の、新しい情報。――お母さんの存在。
 鷹邏を産んだ、リフィーの知らない女性。
 当たり前といえば、当たり前か。
 人も魔族も、多種多様な種族も、大半は誰かと誰かの間から生まれてくるものだ。
 お母さんがいるという事は、お父さんもいるという事で……。もしかしたら、兄姉弟妹だっているかもしれない。

リフィー

鷹邏さんの、家族……。

 お風呂から上がったら、少し聞いてみようか? 
 何も知らない立場から、徐々に覚えた彼への興味を胸の奥で疼かせながら、リフィーはお湯に映っている自分の顔に微笑みを返す。
 ……鷹邏が言っていた、『愛情から生まれない子供』の話を、胸の奥に忘れたまま。

鷹邏

……え? 俺の……、母親?

リフィー

は、はいっ。さっき、え~と、桜鬼、さん? という方が、鷹邏さんのお母さんの事を叫びながらお風呂に現れたので、少し……、気になりまして。

鷹邏

忘れて。

リフィー

え……。

 母親の話題を出した途端、鷹邏を包む温かな気配が一瞬で凍り付いた、気がする……。
 同じ部屋にいるのに、強固な壁を作られてしまったかのような……。
 リフィーの心に、じわり、じわりと、不安の靄が流れ始める。

鷹邏

あの馬鹿鬼の事は気にしなくて良いから。ほら、今夜は松茸で作った炊き込みご飯や、お吸い物、鯛のお刺身もあるんだよ~。さぁ、食べて食べて。

リフィー

……。

鷹邏

な、何、かなぁ……? その愛らしいお目々で一心に見つめてくれるのは嬉しいんだけど、なんか、胸が痛いよっ。

リフィー

話したくないのなら、諦めますけど……。なんか、ズルいな、と思いまして。

鷹邏

ず、ズルい?

 鷹邏は、リフィーが作った壁を軽々と乗り越えて、勝手に借金を肩代わりして、勝手に婚約者の座に収まった。リフィーがどんなに抗っても、土足で踏み込んできた人。
 それぞれに事情を抱えていて、立ち入ってはならない傷や思い出が存在する事はわかっている。
 でも、……リフィーだけが何もかも知られている事に、その逆を許されない事に、少しだけ、不満の気配が疼く。

リフィー

……すみません。もう、寝ます。

鷹邏

え!? ま、まだご飯食べてないよ!? ちょっ、リフィーちゃん!! 俺、なんか悪い事したぁあああっ!?

 何をやっているんだろう……。
 迷惑をかけたくないと思った相手の世話になり、侯爵の許に行く事も出来ず、ただ流されるがままに日々を過ごしている自分。
 受け入れる気がないのに、相手を知ろうと……、好奇心を、興味を疼かせるのは、あまりにも無責任な事だとわかっていたのに。
 何故、この人の事を知りたいと、思ってしまっているのだろうか。

リフィー

鷹邏さん……。

鷹邏

な、何!? 一緒にご飯食べてくれる気になった!?

 何も悪くないのに、布団の中に籠っているリフィーの事ばかり気遣ってくれる、優しい人。
 このまま、鷹邏と日々を過ごしていけば……、きっと。確かな予感に、リフィーは疼くその胸を押さえた。

リフィー

……ドーナツ。

鷹邏

へ?

リフィー

チョコレートドーナツと、ストロベリードーナツが、食べたいです。

鷹邏

ドーナツ? この時間に?

リフィー

大通りの分かれ道三つ向こうの先にあるドーナツ屋さん。あそこなら、まだ開いてます。食べたいです、ドーナツ。

 うるるん……。
 女子力の全てを込めて愛らしいおねだりの表情を浮かべたリフィーが、鷹邏を見上げながら言葉を重ねる。

リフィー

ドーナツ、食べたいです。

鷹邏

リフィーちゃんの為ならばあああああああ!!

 茶屋の主人は女で身を滅ぼす。
 そんな言葉が脳裏に思い浮かんだが、リフィーは部屋を飛び出して行った鷹邏を見送った後、布団から出た。走って向っても、注文してドーナツを持ち帰るには、往復二十分はかかるだろう。

リフィー

……。

 鷹邏の部屋を漁り、男性用の服を取り出すと、リフィーはそれを調整して、自分の身に纏った。
 和服の多い鷹邏だが、彼の部屋には何故か……、洋服の類や、少し特殊な服も取り揃えられているのだ。
 黄金の長い髪をしっかりと髪ゴムで結び、適当にあった帽子の中に仕舞う。
 これで、どこからどう見ても男の子に見えるはずだ。

リフィー

鷹邏さん……、ごめんなさい。

 鷹邏に守られて暮らす日々は、とても温かくて、居心地が良い。けれど、このままでは駄目だ。
 リフィーは鷹邏の自宅を裏手から飛び出して行くと、今度こそ、自分が歩むべき元の道に戻るべく、――侯爵邸に向って走り始めたのだった。

月織

で? 女に夢中な鷹邏に話を聞いて貰えず、俺の所に来た、と?

桜鬼

女の裸なんか、見慣れとるもんやのにねぇ~。鷹邏の奴、あ~んな子供の裸に本気で怒って……、う~ん、やっぱ、本気っちゅー事かなぁ。

月織

本気だから、自分の家に住まわせているんだろう……。俺もあんな鷹邏は初めて見たからな。一人の女を大事な宝物のように扱って、唯ひとつの愛を乞う姿を。

 リフィーが鷹邏の家をこっそりと飛び出した頃、レディアヴェールの王都を、二つの影が歩いていた。
 一人は異形の姿をした和服の男、桜鬼。
 もう一人は、世界を巡りながら気ままな旅をしている男、月織。
 自分の気配を追って現れた東方の鬼に付き合い、月織は酒場に向って足を進めているところだった。

月織

男女間の愛を小馬鹿にしていたあの鷹邏が、必死に口説き落とそうとしている子だ。あまり邪魔をしたりするなよ、桜鬼。

桜鬼

いやいや、俺は鷹邏の邪魔をする気はないんやけどなぁ……。鷹邏のオカンの方は、流石に止められんちゅーか……。

月織

鷹邏の母親? どういう事だ?

 妖である鷹邏の母親は、十二の妖鬼神の一人だ。
 数多の山と妖を統べる、東方の女帝……。
 戯れに他の妖鬼神と交わり、鷹邏を産み落とした存在。普段は気ままに暇を潰しながら生きている鷹邏の母親だが、時折、忘れていた玩具で遊びたがるかのように、息子の日常に介入してくる事がある。
 大抵は……、鷹邏が望まない、悪趣味な事を。

桜鬼

俺のダチが言うとったんやけどな。女帝が……、鷹邏の名を口にしたそうなんよ。あの御人が鷹邏の名を口にする時は、大抵ヤバイ事が始まる前触れやろ? やから、俺……、心配になってしもうてなぁ。

 女帝の気まぐれは、百年か数十年に一度。
 普段は気にもかけない息子に関わりたがるのは、母親の情としてではなく、――本気の殺し合いを望む時だ。五十年前にも一度、月織はその大迷惑な所業を目の当たりにしている。
 自分の生み出した、自分と対等に渡り合える妖を好敵手とし、血を求める女帝の笑み。
 また気まぐれを起こしたか……。

月織

桜鬼……、女帝は、国の方にいるのか?

桜鬼

……それが、なぁ。あの御人の妖気、国にないんよ。姿も、あのビシバシと肌を刺すような妖気も……。やから、鷹邏に注意したろうかと思ってこっちに来たんやけど。

月織

注意を聞いて貰えないどころか、ボコボコにされて追い出されてきた、と。……お前らしすぎて頭が痛いぞ、桜鬼。

桜鬼

め、面目ない……っ。やけどなぁっ!! 女の裸ぐらいで怒るアイツも悪いんよ!! わざと見たわけやないんに!!

月織

はぁ……。恋のひとつでも覚えてみろ。いつか鷹邏の気持ちがわかる時がくる。だが、今はそれよりも……。

 鷹邏とリフィルナという少女の間にある問題と、いつ介入してくるかわからない、女帝の存在。
 ただでさえ厄介な問題が、さらに複雑化する可能性が出てきた。下手を打てば、リフィルナという少女さえも、女帝は鷹邏の怒りを煽る為に利用する恐れがある。――と、月織が真剣に考え込んでいたその時。

リフィー

はぁ、はぁ……!!

月織

……。

桜鬼

あ……。さっきの嬢ちゃん。

 西方の者が身に纏うデザインの服。
 それも、少年が着るような服装に身を包み、帽子を被り込みながらも、黄金の髪が零れている……、返送姿の少女。
 姿だけではなく、人を気配によって見分ける事が出来る二人組は、すぐにその正体を見抜いてしまった。

月織

……桜鬼、名誉挽回のチャンスだ。あの子を保護してこい。

桜鬼

ふぇぇ? な、何でなん?

月織

行け。鷹邏に殺されたくなければな。

桜鬼

ま、マジ? ……い、行ってきまぁあああああああす!!

 使いっぱしりの如く鞭打たれた東方の鬼が、返送姿の少女に向って突進していく。
 勿論、――何も知らずに走っていた少女からの絶叫が王都中に響いたのは、言うまでもない。

15・露天風呂でのご対面!

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