――六月二十三日。
 午前、十一時五十五分。

 メイの“ヘッドフォン”でキャッチした映像が、携帯の液晶画面に流れている。俺と夕月さんは身を寄せ合って、じっと様子を窺っていた。

 ――メイは上手くやるだろうか?


 出かけ際、声をかけてやれなかったのが少し心残りだ。実をいえば、俺たちはメイより早くアパートを出ている。物件の準備やら、口座の確保やら、昨晩使ったアパートの支払いやらと――やらなければならないことが山ほどあったのだ。
 そんな俺たちを、メイは泣き言の一つも言わずに見送った。

一星

まったく……

 心細い、の一言くらい零してもよかったんじゃないかね――と、俺は思う。これまで頼れる大人もいなくて、弱音を吐くという発想さえなかったのかもしれねえけど。

 メイが自宅の庭に降り立ったのは、時計の針がきっかり十二時のところで重なったときだ。玄関先にはすでに礼一郎の姿がある。敵意がないことを示すためなのか――父親が娘に、そんなアピールをしなきゃならねえってのもどうかと思うが――空の両手を顔の前に上げていた。

 礼一郎が口を開く。

礼一郎

冥……お帰り

帰ってきたわけじゃないけど、ただいま

 聞こえてくるメイの声は硬い。
 礼一郎は――悄然と、項垂れて見える。

礼一郎

狂言誘拐か。そこまでお前を追い詰めていただなんて、すまなかった

 その言葉に、メイは鼻を慣らしたようだ。

今回は確かにそうだけど、一昨日のは違うよ。わたしが頼んだんじゃない。父さんからお金をもらいたがった、母さんの依頼だって聞いた

礼一郎

あいつが……

両親揃ってろくでもないから、誘拐犯さんたちが同情してくれたんだ。
おかしいよね。赤の他人の、しかも小悪党だって自称してるような人たちの方が優しい。なにもお返しできないわたしのこと、それでも助けてくれるって

 皮肉交じりに言って、メイは書類を突きつけた。夕月さんが用意した物件の契約書と、念書だ。礼一郎が判を捺せば、メイの望みは叶う。
 礼一郎が一歩、二歩とメイに近付く。
 緊張しているのか、警戒しているのか、メイの手は小刻みに震えている。

礼一郎

 半歩分の距離で、礼一郎が足を止める。メイは自然と見上げる形になる。父娘は向かい合い、お互いしばらく口を噤んでいた。

 どれだけ、そうしていただろう。

 ややあって、礼一郎が腕をのばした。たじろぐように、あるいは怯えたように、メイが身構える。その光景を眺める俺と夕月さんの間にも、緊張が走る。だが、礼一郎はのばした手でメイの頭撫でただけだった。そこらの父親が、娘にするように。

礼一郎

すまなかった。“ゲオルグ”と名乗る男から電話をもらって、一晩。父さんも頭を冷やしたんだ。そして、お前が生まれた日のことを思い出した

…………

 メイは口を噤んでいる。
 父親の声を聞きながらなにを考えているのか、俺たちには分からない。

礼一郎

父さんと母さんは、長くお前を疎んでいた。それは事実だ。けれど、お前が生まれたその日からこうだったわけじゃなかった。お前が生まれてきたことを、確かに喜んだはずだった


 つまり、情に訴えようっていうんだろう。それでメイがほだされると思っているのなら、どこまでも舐めくさっている。

礼一郎

今更、普通の親子関係を模索していこうというのは都合のいい話なのかもしれない。それでもお前が許してくれるのなら、今度は父親らしくなれるように努力しよう

 真摯な顔でそう言って、礼一郎はメイの頭を抱き寄せた。やつの体でレンズを塞がれたのか、映像が暗くなる。ただ、声だけは変わらずに聞こえてくる。

父さん……

 騙されるなよ、メイ。

一星

見え透いた嘘だ

 小声で呟く俺を、夕月さんが隣から小突く。


 メイは――

父さん、本当?

 やっぱり声だけでは、なにを考えているのか分からない。ほだされていそうにも聞こえるし、そうではないように聞こえる。
 酷く不安な心地で、俺はごくりと唾を飲み込んだ。

礼一郎

ああ、本当だとも

 礼一郎が答え、

これからは、わたしのことを考えてくれる? 大事にしてくれる?

礼一郎

ああ、お前は大事な娘だ。冥

 離れる。

 映像が再びあたりの景色を映し出したときには、書類を突きつけていたメイの腕が下がっていた。

わたしね、父さん

 小声で囁きながら、メイの手が制服のポケットを探る。取り出したのは――

一星

バックアップを取ってあったのか?

 どうしたもんか――計画が、少し変わってきてしまうかもしれない。俺は焦って隣を見る。
 夕月さんも、少し難しい顔をしている。

 震える声で、メイが言った。

これ

礼一郎

 礼一郎は微笑みとともにそれを受け取り――

礼一郎

お前は本当に……

 優しい子だ。とでも続けば、めでたしめでたしだったんだろう。
 だけどな、メイ。世の中そんなに甘くねーんだ。

礼一郎

馬鹿な子だ。こんな局面で、まだ家族の絆にほだされるなんて

 ほら、な――
 って、その手の言葉は好きじゃねえんだけど。
 メイの腕をあっさりとひねり上げた礼一郎が、微笑んだまま吐き捨てる。内心では親に好かれたい我が子の想いを踏みにじる、最低なやり方だ。
 悪党の世界にだって仁義はあるってのに。

礼一郎

お前が馬鹿な子で助かったよ。
誘拐犯からの電話も録音させてもらった。編集すれば、逆に彼らを牽制できる

 やっぱり、悪党よりも悪党じみている。

一星

うーむ。つくづく悪魔的発想だな

 こうなってしまっては、もう穏便に済ませるわけにもいかねえだろ。俺は夕月さんと顔を見合わせた。
 問題なし。
 今日の俺たちは不測の事態にも慌てない。相手がどんなやつか分かっていれば、それなりに対処のしようもあるってもんだ。手筈どおりやろうと、一つ頷いてカウントを始める。メイにゃ悪いが――

 3、2――

うん。
やっぱり、わたしは父さんの子だね

 1、と唱える前に、メイが言った。
 はっきりした声だ。なにかに気付いたらしい夕月さんが、手を俺の前に出す仕草でカウントを制止する。

 礼一郎の顔も、怪訝になった。

礼一郎

なに?

馬鹿な父さん。
こんな局面で、まだわたしが家族の絆にほだされるって思ってるなんて。メモリの中身も確かめないで、さ

 ってことは――さっきのUSBメモリは罠か?

一星

なんつう父娘だよ

 呻きたくもなってしまう。
 けど、メイの腹が決まったってんなら話は早いのだ。夕月さんの促す仕草に、俺も一つ頷いた。
 俺たちが次にやることは――

わたしも大概馬鹿だけど。父さんがどういうつもりなのか、確かめたかったんだ

 呟くメイに、蒼白な顔の礼一郎が手を振り上げる。
 だが、おっせーんだよ。おっさん!

一星

やらせますかっての!

 今度こそ、俺はスリングのゴムを離した。

 ちょっと恰好は付かないんだが、エアガンだとプラスチック弾が現場に残っちまうからな。相手との距離がそれほどないなら、スリングで十分だ。庭の石でも拾って弾代わりにすりゃ、証拠も残さず相手の意表を突いてやれる。


 そう、俺たちと礼一郎の距離は“それほどない”。およそ三メートル。朝早くにアパートを出た俺たちは用事を済ませて、一足早く庭にある車の陰に隠れていたのだ。
 約束の時間を前に外出をするほど、心の余裕はないだろう――と踏んではいたが、ぶっちゃけ賭けではあった。なんせ、礼一郎が車を使って出かける気になったら見つかっちまう。無茶かつ無謀な作戦だが、発案は俺ではない。夕月さんだ。

 ちなみにメイが庭に埋めたUSBメモリも俺たちが回収済みなのだ。だからこそ、あいつが礼一郎にUSBメモリを渡したときは、バックアップがあったのかと焦った。

 石は勢いよく飛んで、礼一郎の横っ面を掠めた。予期せぬ攻撃に驚いたあいつが、メイの腕を離す。一瞬の隙を見逃すことなくメイは父親の体を突き飛ばし、俺たちの許へ駆けてきた。

 呆然とする礼一郎を肩越しに振り返り、

だから、言ったでしょ

 俺の大嫌いな台詞を吐いて、やけっぱちに笑う。

誘拐犯さんたちは、優しいって

礼一郎

冥!

……本当は、まったく期待してなかったわけじゃないんだ。一度目は誘拐されたとき。二度目は収納庫に隠れてたとき。三度目は、今。何度でも期待して、何度でも無意味だったって思い知らされる。
それも、もう終わりにしないとね

 言葉に含まれた不穏さを感じ取ったのか、礼一郎の顔色が変わる。

礼一郎

待ってくれ、書類にはサインを――

いらない

 取りすがる礼一郎を、メイはばっさり切り捨てた。

いらない。もう、いいよ。学校のことも、これからの生活のことも。
そもそも、自分のために父さんの横領を見逃そうっていうのが間違いだった。
わたし、全部諦めるから。

……父さんも、諦めて

 最後通牒を突き付けられて、もう交渉の余地なんてないことを理解したんだろう――ま、あれだけのことをやって、まだ許してもらえると思うような馬鹿はいないわな。
 愕然と、そしてがっくりと力が抜けたようにその場にへたりこむ。情けねー親父の方はもう振り返りもせず、メイは俺の腕をぐいと引いた。

行こう。
“コール”さん、“ゲオルグ”さん

 

 藤崎家を離れ、俺は車を走らせる。
 そういやメイのリトルカブも回収してやらねえとな、なんて考えながら。ちらりとルームミラーに視線を向ける。少女は俯いて、一言も話そうとはしない。

 気丈に親父をはね付けはしたが、虚勢もいくらかはあったんだろう。
 こういうときなんて声をかけてやればいいのか、俺には分からない。隣に視線を送って助けを求めると、相棒はやれやれと小さく息を漏らした。

夕月

お疲れさま、冥

 夕月さんの声に、メイがのろのろ視線を上げる。

あ……うん。二人も、お疲れさま。助けにきてくれてありがとう。近くにいるなんて思わなかったから、びっくりした

一星

なんだ、俺たちの存在は計算外かよォ。それにしちゃ、無茶なことしたもんだな

 会話に入る俺に、メイが視線を向けてくる。ルームミラー越しに目が合う。答える声は意外と明るかった。まあ、それも虚勢なんだろうが、表情を見るにめちゃくちゃ無理してるってわけでもなさそうだ。
 ――吹っ切らないとね。
 なんて、そんな意志の強さが見て取れる。

一星

つくづく役者だよな、お前。
マジでひやっとさせられた

へへ、女子高生は賢いんだから

 ありゃ、根に持ってたか。
 苦笑いする俺に、メイが冗談交じりで続けてくる。

あーあ……これから、どうしよ。
“コール”さんと“ゲオルグ”さん、わたしのこと仲間に入れてくれる?

 とはいえ、計画が白紙になったと思っているメイにしてみればまったくの冗談というわけでもなかったんだろうが――

夕月

自棄を起こすものではないよ

 相棒が静かに言った。
 それは、夕月さんなりの思い遣りを含んだ拒絶だ。

自棄にもなるよ。だって、啖呵切ったのはいいけどさ、これからどうすればいいのか分からないんだもん。
まずはバイト探して……っていっても、住むところもないし

夕月

そのことだが――

 ふふふ。
 実はここからが本題だ。
 俺たちはなにも、スリングショットを一発当てるためだけに朝早くから活動していたわけではないのだ。
 手助けしてやるなんていって、活躍があれ一つきりではあまりにお粗末ではないか。

 唇に微笑みをのせた夕月さんが、後部座席を振り返る。その手には、契約書が一通。
 メイはそれに怪訝な顔で目をとおし――

サイン……お母さんの?

夕月

仲介屋と連絡が取れたものでね

 目を白黒させているメイに、夕月さんが微笑んだ。

 そう。
 この人はまったく恐ろしい人なのだ。
 メイの母親にしてやられたことを、よっぽど根に持っていたらしい。礼一郎のことも、はなから信じちゃいなかった。計画に変更が出たときのため、メイに内緒でいくつか予防線を張っていたってわけだ。

 まず昨晩のうちに仲介屋と連絡を取り、メイの母親の不義理とそんな女を紹介した相手を責め立てた。仲介屋のやつは逃げ回っていたというわけではなく、単純に別件で忙しくしていただけらしい。あの女のことは寝耳に水で、えらく憤慨してたそうだ。
 この落とし前は付けさせてもらう――と、まあそういう話になった。今朝のうちに俺たちと仲介屋、そして仲介屋の伝手で集めたちょっと怖いオニーサンたちとで、メイの母親と恋人が住む家へ押しかけさせてもらったわけだ。びびりまくる女の顔は見物だった。
 報復されたくなけりゃ自分の娘にくらい誠意を見せろと、物件の保証人欄にサインをさせた。ついでに俺たちの取り分だった報酬の百万に迷惑料で色を付けて、一年半分の家賃も一括で取り立ててやったのだ。

 すかんぴんの女の代わりに金を払わされた恋人の方はかなり不本意そうだったから、近いうちに別れるかもしれない。

夕月

とりあえず、住むところが確保できれば当面はなんとかなるだろう

 夕月さんの言葉に、メイはハッと窓の外を見た。
 ずっと俯いていたから、風景が違うことに気付かなかったんだろう。俺たちが向かっているのは、昨晩のアパートではない。

 

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