帝都に到着して三日後。

 リトが帝都を訪れた主目的である、帝への目通り――帝は病に伏していた為、実際は摂政として帝国を統治するまだ年若い皇太子に、平原の現状と人々の撤退状況を説明した――は、あっけないほど無事に、終わった。

……。

 だがリトの表情は晴れない。

そなたの意見は了解した。

 そのリトの、沈んでいても端正な横顔を見つめながら、リトの付き添いで共に立った、帝の宮殿の謁見の間の光景を思い起こす。

しかしこちらにはこちらの考えがある。
元老院との協議もあるから、しばらく帝都に留まっているように。

 平原には、『黒剣隊』が拠り所としていた砦には戻らないように。皇太子テオは確かにそう、リトに申し渡した。それが、リトが落ち込んでいる理由。

戻るな、なんて……。
魔物の跋扈を、皇太子殿下は放っておくつもりなのだろうか?

確かに、そうよね。
リトの言う通りだわ。

 帝都近くの森でエリカ達を襲った、重苦しい影が、不意にエリカの脳裏を過ぎる。

あんな恐ろしいものを野放しにしておくなんて。

 正直なところ、エリカはリトの心配に賛同していた。

しかし命は命ですよ、リト殿。

 そのエリカとリトを窘めるように、リトから首尾を聞いた家令ダリオが気遣わしげな声を出す。

せっかくですから、しばらく帝都で休まれてはどうでしょうか。

 平原では、跋扈する魔物達との対峙で身も心も安まる暇が無かったでしょう。ダリオの言葉に、リトは素直に頷いた。

……。

あ。
……だったら。

 しかしまだ落ち込んで見えるリトに元気になってもらおうと、エリカも言葉を紡ぐ。

私に、剣の技、教えて。

エリカお嬢様!

分かった。

 叱る口調のダリオの後で、リトが頬を緩めたことが、エリカをほっとさせていた。

 次の日。

これ。

 リトがエリカに渡してくれたのは、本物の剣。

稽古に、使って。

 そしてその重い剣をエリカに持たせたまま、リトは、細木を敷き詰めた廊下の床にエリカを立たせた。

右利きだから、床の木の線に沿って右足を出して。左足は、右足と直角に。
……そう、それが、基本の形。

 そしておもむろに、剣の技の習得に必要たという足捌きの説明を始める。

前に進むときも、後ろに下がるときも、避けるときも、最終的にはこの足の形に戻るようにして。
……それが、無意識でできるように。

分かったわ。

 剣は重く、そしてその剣を構えて動かしながらのリトの要求は、意外に難しい。それでもどうにか、エリカはリトの声の通りに身体を動かした。

足の訓練は毎日やって。

 そう言ったリトが、次にエリカの前に示したのは、きっちりと詰め物をした胴着と、頭巾のようなもの。

次はこれを着て。

 言われるがままに、エリカは分厚い胴着と、頭だけでなく顔をも覆うこれも分厚い頭巾を身につけた。
 頭巾から出ているのは、目と口だけ。息苦しさを感じ、エリカは持っていた剣を下ろした。

やっぱり少し、暑い?

 そのエリカの耳に、リトの心配そうな声が響く。

でも。
……どこも、傷付いてほしくないから。

 続いてのリトの言葉に、エリカの心臓は急に早鐘を打ち始めた。

この防具、もしかして、……私の為?

 次に感じたのは、嬉しさ。

 そして。

 ダリオが持ってきた、動物の膀胱を膨らませたものを棒状に縫った布に詰めたという、ふにゃふにゃな模擬剣を構えたリトが、エリカに微笑む。

どこからでも、攻撃してきて良いよ。

ならばっ。

 その言葉が終わるやいなや、エリカは床を蹴り、リトに肉薄した。
 剣の技は知らないが、短剣の技は、知っている。しかしリトは、僅かな動作でエリカの身体から離れると、ぎょっとするエリカに横殴りの容赦無い攻撃を叩き込んだ。

いっ……!

だっ、大丈夫?

 一瞬、声を無くしたリトが、リトに叩かれた左腕を押さえて呻くエリカにその手を伸ばす。

やっぱり、私では、剣の技を教えるのは……。

大丈夫。

 眉を曇らせたリトに、エリカは微笑んだ。

 リトは、手加減ができない。魔物相手に手加減すれば、命が幾つあっても足りない。そのことに思い至り、エリカは思わずふふっと笑った。


 午後からは、二人で街に出る。

帝都には様々な人々が暮らしています。
それを知ることも、騎士として、また『黒剣隊』の長として必要なことでしょう

 思慮深いダリオの言葉に従い、エリカとリトは帝都の図書館まで、ダリオに教わったとおりの道を辿った。

それにしても、本当にたくさんの人がいるわ

 広いがごみごみした通りを、リトと離れないように気をつけて歩く。

 エリカ達が滞在している、帝都の西端にある、母であるシーリュス伯の持ち物である小さいが美しい屋敷の側には、同じような屋敷が並んでいたが、そこから一歩、帝都の中心部へ歩を進めると、少なくとも四階建て以上に見える、石の基礎の上に木で雑多に建てられたごみごみとした住宅が並ぶ通りになる。そして更に中心部へ向かうと、帝都を縦断する、街に物資を運ぶ船が行き交う大河と、その両岸に所狭しと建てられた、やはり石と木の建物があった。
 帝都の北側には、帝が暮らす宮殿が建つ丘があり、その周りには広大な庭園と、公や元老と呼ばれる大貴族達の屋敷が盛大に広がっている。ごみごみとした通りと大貴族達の屋敷の間には、市が開かれる広場や商店の建ち並ぶ大通り、そして闘技場や戦車競技場がある。それら全てと、その雑多な街を歩く様々な格好をした人々を目にし、エリカは驚きと戸惑いで口も利けないほどだった。市はもう閉まっているが、広場を歩く人々が騒がしいのはおそらく、闘技場で行われる試合への期待に興奮しているからだろう。
 エリカ達の屋敷の更に西側、帝都の境を成す深い川の側には、羊達が草をはみ、子供達が白詰草を摘んで花冠にして遊んでいる牧草地もある。帝都の多様な光景を、エリカはしっかりと頭に刻み込んだ。

えーっと。
……図書館へは、広場から、闘技場とは反対の道に行く、と、確かダリオさんは言っていた、けど。

 市は午前中で終わっているにも拘わらず人でごった返す広場を、リトが大きく見回す。そのリトの顔色が、心なしか少し悪いように見える。

大丈夫?

あ、うん。……人に、酔っただけ。
平原にも、砦にも、こんなにたくさんの人は、いなかったから。

 だが、リトの袖を引っ張ってのエリカの問いに、リトは心配ないと言うようにエリカに向かって微笑んで見せた。

図書館には、世界のことが書かれた本がたくさんあると、ダリオさんは言っていたね。

ええ。

 道を探しながら、リトが呟く。

でも、お父様の本は、そこには無いの。

え?

 続いてのエリカの言葉に、リトは意外そうな顔をした。

でも、エリカの父上は、帝国でも名が知られた学者だったと。

書物も書簡も、全部『黒剣隊』の砦に保管してあるんだって。

えっ?

 驚いたリトに、エリカは再び微笑んだ。

 エリカの父は、帝都の西方に位置する、丘と呼ぶにはあまりにも峻険な山々の向こうに広がる平原に生息する動植物を観察することを自身の使命にしていた。エリカはそう、母から聞いていた。平原に跋扈する魔物を制し人々を守る役割を持った『黒剣隊』とは旧知の仲で、その縁で、『黒剣隊』を支援し、平原に一番近い街である西の街を差配するシーリュス伯家の娘であるエリカの母と結婚した。それが、エリカが母から聞いた、父の全て。平原を跋扈している魔物のことを憂慮した時の帝とも、父は親交を深めていたという。

そう言えば、砦の地下に、たくさんの書物が残されていたな。

えっ?

 不意に響いた、リトの言葉に、はっと顔を上げる。

砦からの撤退を急かされていたから持ち出すことはできなかったけど、きっとその中に、エリカの父上が書いたものがあるはずだ。

 砦に戻ることができたら、一緒に探そう。リトの言葉に、エリカはこくんと頷いた。

 と。

 脇腹の辺りに感じた、微かな気配に、身を捩る。

なっ!

 エリカの左腕が掴んだのは、細い毛むくじゃらの腕。その腕に握られた、殆ど何も入っていない、腰につけていた財布に、エリカははっと息を吐いた。

掏摸って、本当にいたんだ

はっ、放せっ!

 その毛むくじゃらの腕を持つ、窶れたように見える男が、エリカに向かって罵声を吐く。

ちょっと腕が当たっただけだろうがっ!

では、君の手にあるその財布は?

 庇うように、エリカの前に立ったリトの言葉に、男は口を閉ざした。次の瞬間。

優男風情がっ!

 男の身体がリトの方へ飛び上がる。
 しかしリトは一瞬で、男の身体を地面に伸した。

うわっ、やっぱり瞬殺……。

 騒ぎに集まってきた人々の、どことなく好奇に満ちた視線に、思わず下を向いてしまう。
 やっぱりリトは、……手加減ができない。

第二章 帝都での日々 1

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