8.ブラックジョーク
       アカウント
















 






 

もはや未練はない。

ためらいもない。

喜びも悲しみも、少女による強制力すら感じなくなって、澄人は一つの情に身を任せていた。










怒りだ。




澄人

科人、科人……!

憎き敵であり愛しき相棒であるその人物の名を、一回一回、噛みしめるように吐き出す。


歯ぎしりさせながら声を張るその様は、内に溜め込んだ激情の一部が漏れ出ているかのよう。





彼は途方もない混沌の末、ある到達点へと抜け出たのであった。


そこは際限なき白熱の炎に包まれ、他の何者をも寄せつけまいとする隔離された大地。


火が消えない限り、他の感情がそこに入り混じることは許されない。

澄人

科人、あなたは本当に俺の宿敵だ。悪戯にしたって性質が悪い。あなたがその気なら、こっちも言いたいことを言わせてもらおう……!







下階に響く音を立てながら、階段を一段ずつ上がっていく。


科人の部屋はもうすぐだ。


幅の広い階段を上がっていって、フローリングの廊下を突き当たりまで歩けば右手に彼の自室がある。


あとはそのドアノブを回しながら押し込めばよい。










もはや澄人は、自分がなにをしでかすかまったく見当がつかないでいた。


科人へ詰め寄って、伝えたいことを大声で叫んで、そこからどうするのか。


彼を殴り飛ばすのか、はたまた強く抱きしめるのか。あるいは荒れ狂う炎に任せて彼を死に至らしめるのか。


少なくとも澄人の脳内に、〝こんなことをしてやろう〟という意思はほとんどない。


ただ一つ、科人を恫喝することだけは腹にあった。










相棒の部屋につくまでは、本当に数瞬であった。


階段を上がり切る。


廊下を渡る。


これで十秒足らず。


足をとめるまでもない。










蹴破るようにドアを開け、一歩。






 

科人

やあ、澄人君。おかえり。

普段通りに笑む科人。


その胸倉を、澄人は挨拶もなしにつかみ取った。

澄人

……どうしてだ。

思いを絞り出す。


科人の眉はぴくりともしない。

澄人

どうしてこんなことするんだよ、あなたは!

返答を待ってみるものの、科人はなおも無言。

澄人

あなたはいつもいつもそうだ! 俺を走らせて、弄り倒して、自分はこの拠点で高見の見物をしているだけ! 楽しいか!? こっちはあなたといるのがこの上なく幸せなのに! けれど今は、今だけは……!

科人の細身を貫いてしまいそうな視線で彼を睨みつけるが、澄人の視界にあるのはどこか脱力したような科人の弱々しい双眸。


室内の照明と言えば三台のデスクトップPCくらいしかなく、薄暗い部屋に妖しく浮き上がる彼の顔は、一層気怠げに見える。

澄人

科人。俺に言わせれば、あなたは親愛なる女房役です。今まで俺の面倒を見てくれて、なんだかんだで手伝ってくれる。初ちゃんの家でパニックに陥ったときだって、あなたの名前を思わず連呼していた。

けれど。

澄人

あなたにとって……俺は、なんなんですか……!? おもちゃですか? 奴隷ですか? 穀潰しかなにかですか? お願いですよ、もうこんなことはやめてください……!

じわりと、澄人の視界がにじむ。


なにが起こったのかと混乱しそうになるが、刹那の間によって、それが体の内部より湧き出たものだと認識した。


それでも科人のシャツを握りしめる手から力は抜けない。

澄人

俺はあなたを嫌いになんかなりたくない……! 半年間も一緒にいられたんだ、これからだってともに生きていけるはずじゃないですか! あなたを敵だと思っている自分がいる。あなたに怒りを向けている自分がいる。そんな事実こそが、俺に血の涙を流させるんですよ。俺はずっと、あなたの隣でにこやかに過ごしていたいだけなのに……!

澄人

ああ……今、科人はどんな顔をしているんだろう? 俺を蔑んでいるだろうか? それとも俺に同情を向けているだろうか? 今の俺には、なにもわからない……。

澄人の視界はにじんだままだった。


時計の秒針を追うごとに科人の輪郭がぼやけていって、ついに頬を熱いなにかが伝っていく。


それは幾度か美男子の目元から顎へと落ちていき、彼の顔に二本の線を作った。


体内から水分が出ていくとともに、澄人の拳からも力が抜けていく。










不意に、温かいなにかが首に回されるのを感じた。

澄人

う、あ……科人……?

澄人は、自分と同じくらいの長身に抱きしめられていた。


そうと気づくまでに数秒の間を要したが、首元を覆ってくる腕の熱や、胴体に感じる圧力、己の後ろ髪を微かに揺らしている科人の息遣いなど、すべては現実だ。










その証拠として、

科人

……こんなに君を傷つけていただなんて、思いもしなかったよ。

絞り出したような掠れ声が、澄人の耳に届いた。

澄人

科人……温かいな……。

涙は、なぜだか今になって大量に溢れ出てくる。


澄人の煌めく瞳を満たしては漏れ、また満たしては宝石のような輝きを持って落ちていく。


それはちょうど、蛇口の栓が緩んでしまうような感覚だった。


ダムの決壊のごとき一息の奔流ではなく、等量に、絶え間なく流れ続ける水道水。











澄人は思う。


〝やっと科人が自分の痛みをわかってくれた〟と。


そして、〝次は俺が、科人の痛みの半分を引き受けたい〟とも。


ようやく全面的な協力体制が整うと、彼はそう確信したのだ。











しかし。









科人の口から出てきた台詞は、その確信を根本から叩き折るようなものだった。

科人

でも……ごめんね、澄人君。――もう、終わりだよ。

澄人

へ……?

抱きしめたその動作を逆再生するように、科人の体が離れていく。


立ち尽くしているだけの澄人にはなにを言われたのか理解できず、彼は目尻から雫を垂れ流したまま首を傾げた。





悪夢は、澄人の手によって終わらされることをよしとしなかったのだ。


どこまでも彼をつけ回し、見えない刃で彼を切り刻み、気が狂いそうになっても加害の手をとめてはくれない。










澄人にとっての崩壊は、〝真実〟という巧妙な扮装をして訪れた。









科人

僕には、本当のことを君に話しておく義務がある。なにせ、これでお別れなのだからね。

澄人

お別れ? なんですか、お別れって……?

訊き返す。


おそらくは同じ単語のはずなのだが、澄人は科人がなにかの隠語として〝お別れ〟という言葉を使用しているのではないかと予想した。


もしくは、同音異義語だろうと。


そうするしか、自我を保つ手段がなかったからだ。










科人は質問に答えなかった。


ただ無表情に、

科人

ことの顛末はね

科人

半年前まで、僕は人生をともにしていく人がほしかった。BJNを一人で管理しているだけじゃ、なんだか虚しくなってしまってね。さらに、その力はあった。やろうと思えば、人型の生命体を作ることなんて容易なことだったんだよ。

けれどね、と悔しそうに下唇を噛み、

科人

僕には明確なビジョンが描けなかった。細部が上手く設定できず、作っても作っても、でき上がるのは心を持たない機械崩ればかり。命令を聞くだけの奴隷、あるいはイエスマン人形だったよ。むろん、長く一緒にいれば彼らにも愛着が湧いただろう。けれど、僕にはやはり耐えられなかったんだ。どのみち人型を生成できるのなら、もっと至高のパートナーを作り上げたいとね。

科人

だから僕は求めたんだ、一個人を生み出せるほどの、膨大な設定を。

澄人

せ、設定? なにを言ってるんだ、科人……?










意味のない質問だということは澄人も重々承知の上だが、それでもなにかを口にしなければやっていられなかった。


心を埋め尽くしていたはずの炎はみるみるうちに鎮火され、代わりに薄汚れた〝恐怖〟という液体が水位を増してくる。










科人が一歩前進。










思わず身を震わせて後退してしまう澄人であるが、すぐに肩を掴まれてしまった。


右後方へと押され、ベッドに座らされる。


そして口端に笑みを伴うと、科人はごく自然な動きで澄人の腰へと跨った。





少年の頬に、熱く柔らかな感触が一つ。

科人

ふふ……灰塚ちゃんに惹かれ始めている君をこうやって誘惑するのは、なんだか背徳感があるよ。ここで一戦交えてもいいんだけれど、少しは君の自由意志も尊重しないとね。

澄人

初ちゃんに惹かれているだなんて、そんなこと――

科人

認めなよ、澄人君。僕が送った画像を見ただろう? あの設定に記されていた君の〝好きなもの〟を挙げてごらんよ?

言われ、澄人は科人の吐息に酔いながら、記憶の湖に手を突っ込む。





目当てのものは、間もなく見つけることができた。

澄人

……〝一見して地味で、ドジで、純粋で、理想の男性の前ではどもって、想像力豊かで、いつも理想の人の妄想をしていて、その男にだけは積極的で、やや根暗で、紅白の寝室に身を置いていて――

科人

そう、それだよ。数十個にも渡る事例を句点でつなげ、最後は〝そんな女の子〟で終わる。もちろん他に好きなものはあるけれど、女の子の好みだけは一極集中だったよね。

澄人

そうか……あの怪しい一文が示しているものは――。

ぞくりと、澄人の背筋になにかが走る。


初の家にいたときは頭が回らなかったが、やや冷静になった今ならすぐに気づくことができた。











澄人の好きなものには、

灰塚 初その人が

含まれていたのである。









 

科人

やってくれるよねえ、灰塚ちゃんも。徹底的に分析した自分のすべてを、君の好みとして記している。単に彼女の名前が書いてあるだけならそれを消せばいいんだけど、ある一つの性格を好物とするとき、その嗜好はさまざまな経験の上に発生するだろう? 紅茶を飲んだことがなければ紅茶を好きになれないのと同じさ。灰塚ちゃんを示す数十の嗜好は君の歴史すべてと連動していて、もし好みを弄れば、君は君じゃなくなってしまうんだ。

澄人

……つまり、初ちゃんを好きでいるからこそ俺は俺である、ということですか?

科人

そうだね、本当に狡猾な女だよ。そして僕も迂闊だった。彼女の設定に魅されて君を作った途端、灰塚ちゃんは君を誘導するための〝妄想日記〟なんて代物を書き始めたんだから。獣並みの勘だね。だから、僕は設定のロジックに穴を見つけるまで、君を匿う必要があった。放置しておいたら君は二か月であの子と出会い、恋に落ちてしまう。それだけは、たとえあの子を肉塊にしてでも避けたかったんだ。






気づけば、科人は澄人の二十センチ手前で笑っていた。


晴れやかなものではなく、肉欲に溺れる快楽の表情でもなく、嗜虐心たっぷりの笑み。










すべてが思い通りになり始めた、支配者の顔だった。




 

科人

この半年間、僕は君を置いておくためにいろんなことをやってきた。情報はいくらでもねつ造したし、ことあるごとに君を事件へと繋げていった。法も犯した。倫理も犯した。特徴的なもので言えば、君のアカウントを作ったことだろうか。

澄人

……。

もはや、澄人は驚かない。


半年間ずっと疑って、薄々気づいていたのだ。


管理人である科人が、自分のアカウントを勝手に作った張本人だと。


しかし裏を返せば、それは〝科人以外の者を狙い続ければ、二人の生活は永遠に続く〟ということだ。


故に、澄人は愚直にも科人の指示に従っていた。





科人は貴公子の体にゆっくりと抱きつきながら、

科人

君が僕についてきてくれると知ったとき、僕は歓喜に打ち震えたよ。そして思った。どうあっても君をあの女に渡したくなんかない、とね。――そして、ようやくこのときが来た。

澄人

……設定の穴を見つけた、と?

澄人

……。






なにを見るでもない。


なにを考えるでもない。





胸の内は、すっかり汚水に満たされてしまった。





事務的な口調で応答する澄人は、過去に科人が作った失敗作そっくりである。


彼は既に、ゼンマイ仕掛けの動く人形も同然だ。




 

科人

そうなんだよ、澄人君。そうなんだ。今まで君を壊すことしかできなかったけれど、やっと僕は君を〝あるべき姿〟へリセットする方法を思いついた。そのためには君を作り直さなければならないけど、もう澄人君は灰塚ちゃんに縛られなくていいんだよ。

澄人

作り直す……俺を、殺すんですか……?

科人

そういうことになるね。君は一度消える。けれど安心して。君は生まれ変わるんだ。再度出会ったとき、僕らが今後離れることはもうない。

澄人

死ぬ……生まれ変わる……生まれ変わったら、俺はどうなるのだろう……?

澄人の中で燻っている人間の部分が、彼に僅かな活力を与える。


脳裏に家族の顔が出ては消え、友人たちの言葉が聞こえては失せ、最後に初のはにかむ笑顔が明滅した。


焦りや恐怖も段々と鳴りを潜め、やがて遠くの日の入りを眺めるようなぼんやりとした感覚だけが残る。

科人

澄人君、最後にキスしようよ。パートナーの頼みだ。

澄人

はは……科人、女の子みたいですね。

科人

さあ、どうだろう? 少なくとも、男に生まれてきた覚えはないけどね。

今度こそ押し倒された。


息つく間もなく澄人の口が塞がれ、湿った音を立てながら口内を蹂躙されていく。


唇と唇を強く押しつけたまま、口唇全体を舐め回され、舌を絡まされ、唾液を飲まされ……。















何分間、そうしていたことだろう。


澄人の息が苦しくなって、視界がぼやけてきたところで、やっと科人は彼の口元を解放した。


荒い息遣いとともに、澄人は久しぶりの呼吸をしてみる。










生まれ変わってしまったらきっと、科人が男ではないことも、その唇が至高の柔らかさを誇っていることも、すべて記憶の海から蒸発してしまうのだろう。


彼は微かな感情とともに、〝もう一度、科人と唇を重ねたい〟と思う。










結果として、その願いは叶った。










科人は愛おしそうな目で澄人に軽い口づけをしてから、

科人

ごめんね、澄人君。少々、いじめすぎてしまった。――全部冗談だよ。君と接吻するための大がかりな口実。灰塚ちゃんの妄言と僕の性格が絡み合って生まれた、世紀の悪ふざけだったんだ。今日は本当に……ごめんね。

澄人

科、人……。

掠れる声で、その名を呼ぶ。










現実感などというのはとうの昔に崩壊してしまっているが、嘘か真かはどちらでもよかった。










澄人は綺麗な瞳の下で科人の台詞を反芻し、その言葉に喜んでいる自分を自覚する。










科人の微笑を視野に埋めながら、科人の匂いが染みついたベッドの感触を味わいながら、やっとのことで歓喜しそうになって――

















澄人が、消えた。









 

科人

嘘を嘘で終わらせないと始末が悪いように、ゼロはゼロで終わらせるべきなんだよ、こういうのは。指を鳴らせば魔法は解ける。夢と現実の狭間みたいなところで、僕と君はずっと生きていたんだ。

あまりに呆気なかった。





澄人の存在はスイッチのオンとオフを切り替えるように失せ、まるで最初からそこに存在しなかったかのごとく、美男子の姿は消えている。





声もなければ色もない。





完全に、この世界から失われてしまっていた。




 

科人

待っていてね、澄人君。大丈夫、少しの辛抱だよ。灰塚ちゃんを地獄に叩き落としたら、彼女の設定を流用してもう一度君を作ってあげる。そうしたら、ついに君は僕だけのものさ。灰塚ちゃんの宙ぶらりんな冗談じゃなく、僕の描いたシナリオで、君自身の人生を歩ませてあげるよ。















僕の、すぐ傍でね。














 

呟く先には誰もいない。





もちろんだ。





澄人の体は、科人が一動作でかき消してしまったのだから。









が。










それでも科人は、

恍惚な表情で

ベッドのシーツを撫でる。


















そこには

美しき少年の温もりが

たしかな熱となって残っていた。









 











 

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