午前3:00。立花研究所の所長室のソファに横になった男は部下と思われる白衣の男に短く話しかけた。
それで?
午前3:00。立花研究所の所長室のソファに横になった男は部下と思われる白衣の男に短く話しかけた。
検体コードαの行方は未だに不明ですネ。
二人はどちらもこの研究室の科学者であった。
横になっている男はネクタイを緩め、しばらく剃られていない無精ひげをぞりぞりとなでながら目を瞑る。
厄介なことになったね?
確か君がやっていたのは「不死の研究」だったかな?
はい、その通りですネ。
先生はあまり興味がなさそうですがネ。
部下の科学者は最後の語尾に独特のイントネーションを置いた話し方で答えた。
上司の科学者は気付いていないが、彼の口元はわずかに笑みを浮かべている。
自分の管理している検体が脱走したっていうのにやけに冷静じゃないの?
いえ、そんなことはありませんヨ。これでも取り乱しているほうですヨ。
蓼科 新介(タテシナ シンスケ)は相変わらず自分の髭をいじりながら、能美 秀星(ノウミ シュウセイ)に対し疑うような視線を一瞬だけ送ったあと、再び目を瞑り、考えにふける。
そして数秒後に目を開き、身体を起こした。
まぁ検体コードαの確保が第一だね?
彼の情報をまとめて研究室の情報課に送ってくれるかい?
かしこまりました。失礼します。
能美が退室したあとで蓼科は再びソファに横になる。
警察には頼れない。ここの研究室は国家に認められているとはいえ、必ずしも合法ではない。
科学こそが各国の力となった世界にとって多少の無理というものが必要になっている。
だから、警察への依頼により民間人に余計な情報が洩れるというのは避けたかった。
そういう研究所であるから、独自の捜査機関が組織だれている。
情報課
しかし、蓼科自身はこの情報課をあまり信用していなかった。自らが研究をするが故に存在していることは重々承知しているが、彼らには悪い噂が目立つ。
そしてその悪い噂というのはたいてい、人の死というものをあまり重くとらえていないというものだった。
分かりやすく言ってしまえば、目的遂行のためならば殺しをもいとわない集団なのだ。
しかし、彼らに依頼しているというのはそれほど早急に解決したいということの裏返しであった。
能美が今進めている実験は不死の研究である。
蓼科自身はその研究は行うべきではないと考えているというのは本音だった。
もしそれが可能であったとして、その後にどのような不都合が生じるか、蓼科には分かりすぎるほど分かっていた。
科学者は
科学を進める者であると同時に、
科学を制御する者でなくてはならない。
科学を暴走させる者であってはならない。
それが蓼科新介の持論であった。
しかし、この立花研究所というのは科学を強引に進化させるための場所であるという側面を持つがゆえにその理念に合わない研究者が多いというのが現実であった。
そして能美もどちらかといえばその類の科学者であった。彼に賛同して協力するものが多いために、不死の研究は進められた。
ところがその被験体であったという検体コードαが脱走したという。
蓼科自身はその実験には関与していないが、所長であるがゆえにその処理責任は彼にある。
世間へのパニックやその他の被験者への影響が起きる前にこの事態を収束させたい。
蓼科はソファから起き上がると、デスクの上に置いてある書類を見つめる。
それは情報課への依頼文書だった。
情報課は組織ではあるが、依頼自体は個人単位で行われる。
それは一つの事案に対し最低人数で対処することによって不要に情報が洩れることを防ぐための仕組みである。
絢鞠 国士(アヤマリ コクシ)
27歳 男性
立花研究所情報課所属
事案処理数547件 成績順位第1位
それが今回依頼する男のプロフィールである。
今回の事案は機密レベルも難易度も最上級である。
故に彼一人に動いてもらうことになる。
写真から窺うに只者ではない。
そしてただ穏便に事を収めてくれるものでもなかろう。
蓼科は不安と焦燥感にその明晰な頭脳が鈍っていくのを感じながら再びソファに座り込む。
そして自分が進めている《自由七科》の被験者のことを考え始めた。
これから劇的に進化していくであろうME技術という一つの科学の暴走に対し、今のところ科学者である蓼科に持ちうる唯一の力である。
というのも、まだ未知の部分があるとはいえ、MEを生成することができる者たちが発する「音」があることが判明したのだ。
音、と言っても我々が普段聴覚神経を通じて知覚している音とは全く異なるのだが。
言うなれば別の位相にある「音」である。
とにかくその「音」をジャミングすることによって、というよりも正確には能力保持者が発したその「音」によって歪められた「音」の磁場のようなものを強制的に戻すことによって生成をキャンセルできる、というのが《自由七科》の中心理論となっている。
しかし、これらの発見は公表していない。というか公表できなかった。
なぜならば、今多くの研究機関、企業、そして世界中の政府がMEによる事業を展開しようとしている。
その中で、その対抗技術である《自由七科》が公表されると、端的に言って邪魔なのである。
多くの権力者たちはMEを神格化することによって、MEを中心とした世界を作ることを目論んでいる。
その風潮に水を差すようなことをするのはやめろ、という圧力がかかっているというのが事実である。
絢鞠 国士という人物を任命しなくてはならない理由の一つにその圧力を数えるというのも間違っていないわけだ。
嫌な世の中だよねぇ?まったく。
蓼科の憂鬱は深まるばかりであった。
――立花研究所情報課本部
今回依頼したいのは検体コードαの確保ですネ。
僕の実験に参加中、脱走しましてネ。
能美は照明が全て消えている代わりにPCの画面のブルーライトによって辛うじて視野が確保されているという不気味な部屋に来ていた。
先ほど蓼科に指示されて作成した検体コードαに関する情報が記載された書類を渡しながら話している相手は、立花研究所情報課の絢鞠 国士であった。
実験中……検体……脱走……無能。
そのいろいろと品詞が欠落した話し方を能美は頭の中で補完する。
「実験中に検体が脱走するとはなんと無能なことだ」
といったところだろうか。
それに関しては申し訳ないございませんネ。
プライドの高い能美はこれ以上ここにいると自分の精神衛生水準が下がると判断すると、手短に説明し始めた。
検体コードαは不死身の研究に使用された検体ですネ。ゆえに確保は厳しいと考えていいと思いますヨ。
所長には報告していませんが、《自由七科》の技術を流用したものなのデネ。
《自由七科》は「音」の磁場を戻すために瞬間瞬間の周りの環境を保存していくものデネ。
その保存という機構は不死身、つまり不変さには持って来いということなのですヨ。
不死身……問題……皆無。
まぁ最後まで聞いてくださいヨ。
ですから《自由七科》と検体コードαは元が同じ実験と言えるわけですヨ。
そして、僕が作った検体コードαは流用されたものであるがゆえに完成度に差がある考えられますネ。
そして不完全なものは完全になろうする、というのがこの世の万物の法則の一つですネ。
不安定な分子が他の分子と結合して安定しようとするのもその法則の一つと言えるわけですがネ。
説明……冗長……不快。
申し訳ないネ。では端的にネ。
検体コードαは《自由七科》を襲う可能性があるということですヨ。
了解……行動……開始。
絢鞠は胸ポケットからライターを取り出すと、読んでいた検体コードαに関する書類に火をつける。
チリチリと燃えていく書類には金髪緋眼の少年の写真が貼ってあった。
検体コードα
不死身に関する研究の被験者
本人の記憶および履歴は抹消済み