1.ブラックジョーク
エンカウント
一つの出入り口から人がどばどば吐き出されてくるのって、あたかも水道みたいだよねえ。蛇口をひねると塩化系の薬品を着込んだやつらが大量に飛び出してきて、節操もなく四方八方に散らばっていくんだ。早く下水道にでも流れついてくれないかなあ
最近は、あなたの笑えない冗談について行ける自分が怖くて仕方がありませんよ。下校していく高校生たちがいる前でよくそんな意地の悪い例えができますね
すぐ左からやって来た疲労混じりの声。
男女の判別がつきにくいその肉声に、澄人(すみと)は普段通りの落ち着いた反応を寄こした。
彼の視界に、隣で愚痴を垂れる者の姿はない。
それどころか、下校している最中であるはずの高校生の影も。
視野に入っているのは携帯電話のディスプレイとそれを持つ自分の手、加え、アスファルトの地とそこに面を重ねた己の足だけだ。
携帯の画面には、白い歯を見せる彼の大きな顔写真があった。
上部には線で囲まれた〝清白 澄人〟という名前があり、その上には〝BJネーム〟との表記。
最下部にはメールやタイムライン投稿などのメニュー欄があり、すなわちそれはSNSのホーム画面を意味した。
澄人がにらめっこでもするように自分の写真と顔を突き合わせていると、
ん、あの子じゃない?
ほら澄人君、そんなに僕の傑作アプリを見つめないでおくれよ。〝僕への間接的な求愛〟という意味なのは重々承知しているけれど、今はもっと優先的なことがあるだろう? なにせ僕は一刻も早く、静かでゆったりできる場所へ移動したいんだから
ええ……それもそうですね。俺としても、制服ではなく普段着で来るべきだったと後悔しているところです。行きましょうか
君は本当に、人からの求愛をゴミ箱へ投擲する男だよねえ
遠回しな抗議をスルーし、澄人はようやく携帯の画面をロックしてズボンのポケットに滑り込ませる。
そして面を上げると、意識外だった周囲の喧騒が一気に舞い戻ってきた。
がやがやとした会話の集合体。
目立つのはやはり、黄色い声だ。
内容をかい摘まむに、
誰あの人たち!? カッコよくないっ?
誰か待ってるんじゃないの? ていうか、二人ともイケメン……
あれが本物の王子様……
というものである。
澄人もこの手の状況には慣れているので、目を合わせてくるような女子には軽い笑顔で対応する。
が、こうなってしまうと〝穏便〟などという単語とは縁遠かった。
変装でもすればよいのだが、それでは不審者と思われて通報でもされかねない。
それに、澄人の際立つ美貌こそが、目標人物に声をかけるための武器となるのだ。
そしてターゲットは、二又に裂けていく人ごみの、裂け目の位置に立っていた。
……
彼女は服装に乱れがなく、髪の色も順当な黒で、垢抜けていない。
素材は良質のようだが、澄人からすれば〝飾りつけがなっていない〟という評価だ。
つまり地味なのである。
と。
すーみーと、君
一瞬で彼女の頭から爪先を見通したとき、一つの影が躍り出た。
真っ白なワイシャツに身を包んだ、長身の男性――あるいは女性。
澄人はこの人物を〝彼〟とみなしているものの、実際のところは謎であった。
澄人君、行かないのかい?
あ。待ってください、科人(とがひと)
科人と呼んだその男を声で制止し、一度携帯を取り出す。
映し出すのはSNSのホーム画面ではなく、〝手鏡〟と名づけられたアプリケーションだ。
澄人自身の顔や髪型をチェックするための意味もあるが、どちらかといえばこれは周りに対して見せつけるという意図が強い。
目的の女子に、〝自分の格好を確認して会わなければならない人物がいる〟という意識を植えつけるのである。
ものの五秒で完了。
駄菓子屋前のベンチから腰を上げ、車が左右から来ないことをたしかめつつ車道を渡り始めた。
その女生徒は、周囲の生徒となにかが違っていた。
人目を気にしない。
澄人たちを見ても声を上げない。
まるで己はこの場所で案山子(かかし)となるのが使命なのだとでも言いたげに、澄人へ視線を送りながら硬直している。
あっ
と、彼女がはじめて発声した。
澄人と科人が狭い車道の中央まで来たとき、彼女も歩き出そうとしたのである。
そこで、つまづいた。
ただの小石さえ落ちていない平面な道で、誰かに押されたかのように。
否、まるで澄人に引き寄せられたかのように。
っ!
少女の体が、爪先を軸として傾いていく。
やがて自力では体勢を立て直せなくなり、次第に上半身もろとも弧を描くような軌道で地面へと近づいていって、
っと。大丈夫か、君?
あ……は、はい。すごく、大丈夫です
やっと見つけたぞ……俺のアカウントを勝手に作った張本人
抱き合うような形で彼女を支えた澄人。
一際大きな歓声と悲鳴が聞こえてくるが、もはやそこに用はない。
はやる気持ちを抑えつつ、彼女の顔を覗き込んだ。
自然と頬染めをするその表情に向かって、一撃必殺の一言。
ずっと君に会いたかったんだ。用がある。まずはカフェにでも行こう
そして最後に、
ね?
と爽やかな笑顔つきで念を押してやり、なるべく不謹慎に体を触らぬよう両肩だけを持って彼女を起こす。
……
……
答えはもちろん是。少女はますます恥ずかしそうに顔を紅潮させつつ、こくりと一つだけ頷いた。