第8話

 響は凍りついた。

 可南太の体が道に転げた。

 桜田が可南太の腹を蹴った。

 可南太はうめき、縮こまった。

 響は震える声で叫んだ。

やめてください!


 桜田は蹴り損なって足踏みした。

 桜田が響に不敵な笑みを向ける。

 可南太はまだ地で丸まっていた。

 桜田が可南太の体をまたいだ。

 思い出したように身を返し、
 脇腹にもう一発食らわせた。

 そのとき桜田が短く叫んだ。

 舌打ちし、響に力なく頬笑みかける。

桜田

蹴りすぎた。
爪が剥がれたな

……


 響は勇を鼓し、桜田の前に立ちはだかった。

桜田

なんだよ


 と桜田が肩を怒らせた。

 響は言い返せなかった。

 桜田は咳払いした。

桜田

お前が男と歩いているところは見たくない

桜田

兄だろうと親父だろうと何だろうとな


 桜田は颯と響に背を向けた。

 その不揃いな足音が遠ざかっていく。

 響は可南太のそばにひざまずいた。

養護教諭

痣はあるわね

養護教諭

肋骨は折れてないと思うけど


 響は可南太にシャツを着させた。

 袖を通すとき可南太は痛そうに息した。

養護教諭

ところで何があったの?

養護教諭

転んだとは言わせないわよ。
殴られたような痕もあるしね

実は……

可南太

地元のグループに襲われたんです


 響は横目で可南太を見た。

可南太

帰り、警察に相談しに行きます

地元のグループ?
それは初耳でした


 と響は皮肉った。

では放課後、私もついていくとしましょう、
警察署まで

どうして嘘をついたんです

可南太

桜田は親友だ。
友達は売れない

あれは、
あなたの知っている桜田さんではありません

もっと下等な生物です

そもそも外見だって違うのでしょう?
なら完全な他人ではないですか?

可南太

言われなくてもわかってるさ、
そんなことは……!


 可南太は拳を握った。

可南太

でも、
それを呑み込むにはまだ時間が掛かる……

彼は私のストーカーです

可南太

君は彼に恐怖を感じた?

いいえ、一度も

むしろ怒りを感じていました

何せ、
私の貴重な時間を空費させる存在ですから

ただ……

可南太

ただ?

今日は少し怖かったです

あなたに暴力を振るったんですから

大知

響ちゃん

今忙しいのですが

用件は何です?

大知

これ返しに来た

 と朝、あげたお金を手渡してきた。

返すも何もあなたに差し上げたわけでは……

大知

違うの

大知

募金じゃないの

大知

詐欺。
カルトの金集め。
困った人たちを助けなんてしない

なるほど。
では、返していただくのがよさそうですね


 大知がもじもじした。

大知

私ね、お父さんが

私はあなたのカウンセラーではありません

話を聴いてくださる方なら、
そのカルトに腐るほどいそうなものですが

大知

ダメ。みんな、ほら……


 と大知はこめかみに指をあてた。

 響は頷き返した。

 空いている席を勧めてあげた。

5分だけなら

大知

ありがとう

大知

私ね、変わりたいの

それは見あげた心がけです

大知

……

……

大知

……

……お話は以上ですか?

ではまた来週


 響は腰を浮かせた。

 大知が肩を戦かせていた。

 頬には涙が伝っている。

 響は掛け直した。

あと2、3分で泣きやんでくださると
助かるんですが……

大知

私、変わりたいの

それはもう聞きました

大知

私、罪深いの

みなお互いさまです。
私自身、『恥の多い生涯を送って来ました』

大知

でも私は、人を騙したり、嘘を吐いたり……

数学的に考えればいいんです

マイナスならプラスにすればいい、
それだけです

大知

でもどうやって!?

それはあなたが見つけることです

それを見出すことこそが……

魂のアセンションの第一歩なのです


 響は大知の眼を覗き込んだ。

例えば……

誰か傷ついている人を救済するとか……

ここなら安全です


 と軋むドアを開けた。

可南太

初めて来たよ


 そこは図書室だった。

 図書委員なら誰でも鍵を借りられる。

ここなら桜田くんは来ません

彼、読み書きできないので

可南太

それはうれしいね


 と言いつつ、室内を見まわしていた。

可南太

で、何だ。話って


 ふたりは椅子に掛けた。

ひとつ忘れていたことがあるんです

私たちはよく似たセカイから来ています

肝心な作業をし損ねていました

互いの記憶を突き合わせることです

可南太

ああ、なるほど

可南太

例えば、君のセカイでは

可南太

マイケル・ジャクソンがまだ生きてるか、
とか?

そういうお遊びは、
余裕があるときに是非したいものですね

例えば、
50時間以内にセカイが滅亡しない時とかに

可南太

……君のセカイとの違いねぇ

可南太

少なくとも向こうのセカイには、
君のような子はいなかったよ

可南太

ここまで嫌味な子はね

あなたも皮肉っぽくなってきましたね

どうやら私たちは、
歩み寄りを始めたようですね

 ふたりは知識を照らし合わせた。

 両セカイとも大きな歴史の流れは変わらない。

 スターリンがいて、ヒトラーがいて、ルーズベルトがいて、毛沢東がいた。

 しかし小さな歴史は違った。

 身近なところでは大知には父親がいた。

 だがカルトの信者だ。

 そして桜田は本人からして別人だ。

 響のセカイで桜田の母親はたしか西洋人だった。

 ロシアかドイツかアメリカか、定かではない。

 だが可南太のセカイでは日本人らしい。

 話は自分たちのことにも及んだ。

可南太

……○○町にぶどう畑があるだろう?

小4の時、見学に行きました。
△△先生がカメラに熱中しすぎて……

可南太

ああ、後ろ向きにこけてたっけな

お尻が泥まみれで……

可南太

帰りのバスで新聞紙を座席に敷いてた

そうです、そうです

可南太

あのとき、
ぶどう農家で試食もさせてもらったろ?

可南太

あの食べたぶどうが忘れられなくてさ

可南太

次の月に桜田を連れてつまみ食いしに行ったんだ

可南太

いや、正確には盗み食いだな

荒くれですね

可南太

塾で夜まで補習だとか親に嘘ついてさ

可南太

夕方、
農家近くの林に隠れて夜になるのを待った

可南太

ふたりで全身蚊にさされまくった

可南太

で、暗くなって忍び込んで食べた

可南太

うまかったけど、すぐにバレた

可南太

農家の息子さんが見回りに来たんだ。
懐中電灯を手にね

可南太

俺は逃げおおせた

可南太

が、
桜田は捕まった

それで見捨てた、と

可南太

……俺は家に帰って母さんに謝った

それで見捨てた、と

可南太

母さんにはビンタはされた。
当然だ。仕方ない

可南太

それで、車を出してもらったんだ。
桜田を迎えにね

見捨てなかったんですか

あなたにも人間の心があったんですね

可南太

友達思いなのさ

可南太

で、だ。
桜田は農家の縁側に腰掛けてた

可南太

あの顔は忘れもしないよ

可南太

口を真一文字に引き結んでた

可南太

あいつは口を割らなかったんだ

可南太

俺の名前を聞かれても、答えなかったんだ

可南太

今ではいい思い出だ。
リアル『走れメロス』さ

可南太

まあ、その後、弁償がわりに農家に手伝いに通わされたよ。桜田も一緒にね

可南太

だから今でもぶどうの目利きだけはできる。
今の季節、スーパーで役に立つ能力だ

可南太

桜田の奴、先端恐怖症でさ。
ぶどう鋏を怖がってたよ

可南太

俺がふざけて鋏向けると、
飛び上がって逃げ回ってた

可南太

……君は悪いことなんかしたことないだろ

いえ。ありますよ

可南太

どんな?

中2のとき……

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