第4話

 ウィリアム・ウィルソン。

 響は彼をそう名づけた。

 近ごろ夜ごと部屋にあらわれる男の幽霊だ。

…………


 彼は響に語り続けていた。

 だが声は届かない。

 ウィリアム・ウィルソンは学校の幽霊とは違う。

 彼は動く。

 そして、
 ジェスチャーを含めたメッセージを送ってきている。

……


 響は指で宙に字を書いた。

 Who、という質問に、
 ウィリアム・ウィルソンは応えなかった。

 響は国際手話で名前を尋ねた。

 学校の幽霊と交信するつもりで、
 身につけたものだった。

 しかしウィリアム・ウィルソンは、
 それも理解していないらしかった。

 こうした試みはもう何度となく図っている。

 とはいえ意思疎通に成功したことはない。

 響はおそるおそる、
 ウィリアム・ウィルソンに手を伸ばした。

 響の手は宙を掻いた。

 やはり実体はない。

 そうしているうちに、
 ウィリアム・ウィルソンは掻き消えてしまった。

 光を失い、部屋が暗くなった。

昨日も出てきたのか。
それは興味深い


 電話の向こうで父がこぼした。

 ウィリアム・ウィルソン出現に対する感想だった。

昨夜でもう3日目です

伝えたいことでもあるのかもしれないな


 父は考古学者だった。

 現在はモンゴルで発掘調査をしている。

 響の家は父子家庭だった。

 4才のときに母を亡くしている。

 日に2、3度、父の方から電話が掛かってくる。

 響はウィリアム・ウィルソンの話を続けた。

彼は消滅してしまうんです、突然。
ディスプレイの電源を落とすように

学校の幽霊と関係があるのかな

わかりません。
動くと動かないという大きな違いはありますが……


 響はポケットから手帳を取り出した。

ウィリアム・ウィルソンは、
午前0時から1時の間に現れます

消滅するまでの時間は、
2分から8分に延びています

日に日に長くなっているのか。しかも倍ずつ

だとしたらいずれ

永遠にそこに留まるようになるかもしれないね

…………


 響は電話を終えると学校に向かった。

大知

その茶色のメッシュは何だ


 朝、廊下で大知と出会った。

大知

よせ。
似合わないぞ

死者へのメッセージです

大知

ああ、例の……

あのほくろのサイン、
それに彼は応えてくれました。
髪を私の色に染めてくれたのです。
私もそれを真似て、返事をしたのです

大知

その男は気に食わない

会ったこともないのにですか?

大知

ああ

どうしてです? 未知への恐怖ですか?

大知

お、お化けは別に怖くないぞ

大知

ただ、お前が深入りしそうで心配なんだ

大知

そいつは死霊だぞ。
呪われたりしたらどうする?

大知

例えば真っ暗なところに引きずり込まれて、
永遠に出てこれなくなったりしたら……!

お気遣いには感謝します

ですが私は常に挑戦していたいのです、
まだ知らないものごとに……

大知

……そうか

大知

響の意志は尊重するよ。
挑戦したいなら、しな

 響は頷き返した。

 挑戦――。

 その知識欲は父譲りだ。

 響にとって最高の父親だった。

 昔は聞けば何でも教えてくれた。

 光は何でできているのか。

 空と海は何故青いのか。

 土は何処から来たのか。

 草と木と花はどう違うのか。

 夜空の星とは何なのか。

 ヒトは鳥や獣、魚とどう関係があるのか。

 父親は全ての物事について、
 簡単な言葉で語れる、完ぺきな生き字引だった。

 響は10才になる頃には本や図鑑を読みふけった。

 父親を負かせる質問を見出そうとしていた。

 が、その問いは本にではなく体にあった。



 あるとき響は胸許に或る兆しを覚えた。

 その意味について父に訊ねた。

 父は沈黙した。

 聞こえないふりをしていた。

 書斎で響に背を向け、パイプを燻らしていた。

 父は訊き返すことも振り返ることもしなかった。




 その問いを解いたのは父ではなくて、
 同級生の大知だった。

 大知はしゃがんで地面に枯れ枝を走らせた。

 まず直線を引き、次にカーブを書いた。

 カーブは書かれるにつれ大きく膨らんでいく。

 なるほど、と響は頷いた。

 大知は胸を張っていた。

 響は言った。

『これでわかりました』

『お父さんは頼りになりません。
 知らないこともたくさんあるのです』

『しかも、答えられないと黙っているのです』

 それに大知は答えた。

『私にはオヤジがいない』

『その私が思うに、
 いないよりいるに越したことはない』

『たとえ頼りなくても、たとえ冴えなくても』

『オヤジはいないよりいる方がいい』

 響は尋ねた。

『酒びたりでギャンブル中毒の父親ならどうです?』

『それは……』

『それは、それだ』

『でも、
 響のオヤジさんのような人ならいてもいいと思うぞ』

 大知に刺激され、響は人体についても学び始めた。

 本と体を引き比べたこともあった。

 その結果、響はズレを感じた。

 中学でも響と大知の体は逸脱していた。

 響は成長が早かった。

 体操着だと胸苦しさを覚えた。

 逆に大知は成長が遅かった。

 彼女のブレザーは絶えず空虚を抱えていた。

 周りの女子たちとは何処か食い違っていた。

 体の『とけこめなさ』、
 それがふたりをむすびつけていた。

 以来高校までふたりは一緒だった。

 2年になってからはクラスも同じになった。

 今でも他の女子より、
 響は頭ひとつ大きく、大知は頭ひとつ小さい。

 鏡の前でふたり肩を並べれば大文字のIと小文字のiになる。

 ………

 放課後、桜田に出くわしてしまった。

桜田

今、大知の奴がいたぜ

いても不思議ではありませんが

桜田

ああいう女は嫌いだ

ではつりあいがとれてますね

大知さんもあなたが嫌いですから

桜田

でも、俺はお前が

私もあなたが嫌いです

桜田

そう言うな

桜田

けど……
大知ももう我慢の限界だろうな

桜田

そろそろ俺にキレる

桜田

そして、俺を殴る

桜田

そうすれば停学になる。
それで、もう1発殴れば?

退学です

桜田

激しやすいと扱いやすい

…………

……ひとついいですか?


 桜田が眉を動かした。

 響が言った。

もし大知さんが退学することがあれば、
私も学校を去ります

桜田

そうか

桜田

それで、
俺が追いかけていかないとでも思ったか?

…………


 桜田は不敵な笑みを残して去った。




 『…………』



 『………よ』



 『応……せよ』

 響は目を覚ました。

 視界の端に光を感じた。

 響は顎を引いた。

応答せよ


 ウィリアム・ウィルソンがいた。

 そして彼は話している。

聞こえるか


 響は身を起こした。

はい

聞こえています

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