本当は、君に未来も時間も何もかもを捨ててほしい。
 そうして私と心中してほしい。

 それでも本当は、世界が消えてしまえばいい。
 そうも、思っている。君と生きたい。二人きりでも構わない。

 どうしようか。




 青い細菌





 世界は大混乱の最中にいた。


 この期に及んでまだ、業務を全うしようとしているニュースキャスターが、ぎゃんぎゃんと叫ぶようにテレビに向かって現状を伝えている。

そこです、すぐそこのビルが、青い細菌に飲み込まれました! 

私たちは助かりません! 

無音で近づいてくるそれは、私たちを飲み込んでいくのです!

 それを見ていた人の何人かは、彼女が最後まで自分の生き方を全うしたのだということに気がつく。あれは、業務ではない、生き方なのだ。


 その、なんと幸せなことだろうと、だれかは思う。

 テレビの中が青く染まっていく。逃げ惑う人もいるが、そうでない人もいる。

 だまって、諦めたように、青い細菌が迫り来るのを見ている。
 

逃げて……!

 ニュースキャスターは最後に微笑んで、青く染まっていく。

 あっという間に真っ青になった彼女を写し出したテレビは、やがて青く染まっていく。



 と、いうことで、とそのニュースを引き継いだ男性のニュースキャスターは、感情が消えてしまったような目でこちらを見続けていた。

 彼もまた、その生き方を選択したのだ。



 この世界は青く染まる。
 地球は青かった、ということばを、その通りにしてくれる細菌が現れてしまった。


 名前はそのまま、青い細菌。

 それは、触れたものを青く染める。生き物の身体中にそれがあっという間に広がり、生命活動は停止する。

 コンクリートも、機械類も、青く染まる。

 生きているか生きていないかなど、青い細菌には関係がない。


 そんな町を高いところから見下ろしている、二人の男女がいる。

寝坊して、慌てて学校に行ったら、席替えが終わっちゃってた感覚

 青い髪の少女は、ビルの端に座って、青くなっていく世界を眺めていた。

何それ、意味がわからない

 青い髪の青年は、真顔でメガネをくいとあげた。青く染まっていく世界が、メガネ越しに美しく映っている。

私は何も選べないの、ここねって、席が決められている。それって寂しいことじゃない

なるほど……この世界を、ただ眺めていることしかできないことを、悔いているの?

 青年はふふと笑って、少女の隣に腰を下ろした。

 少女が、彼にもたれかかるが、彼は意に介さない。

 黙って、徐々に青くなっていく世界を見ている。

青いペンキを神様が間違えて地球に落としちゃったみたいだ

 青年は言った。それはいい例えだと、少女は思う。

 徐々に、向こうの方から、青い世界がじわじわと広がっていく。

予想外すぎると、当たり前だけど混乱するよね

 少女がため息混じりに言う。

そうだね。

もう、この地球上に安眠できる場所はなくなっちゃった。一日中混乱している。

みんなに教えてあげたいよ、落ち着けばって

落ち着けるのは、私たちだけだよ。

もしかしたら助かるんじゃないかって、夢見てる人たちが少ないことに驚きだね。まあ、夢を見る暇もないのかもしれないけれど

 高いところからだと、じわじわと青い細菌が広がっているのがわかる。
 絶望に、今も飲み込まれている人がいる。

未来が飲み込まれていく

 少女が呟く。

未来なんてなくなっちゃえって言ってたのは、だれさ

 青年は、少女の声を真似て、言う。

やだよ、就職難で不景気のこんな世界には、不安しか覚えないよ! 

ああ、こんな世界なくなっちゃえばいいんだよ、未来なんてなくなっちゃえばいいんだよ!

ねえ、それすごく前の話でしょ。

発症する前じゃない。

似てなさすぎて笑えないよ

 少女は立ち上がる。

 空と地上が、青色という共通点でひとつになってしまっている。

君に私の気持ちはわからないだろうね

君だって俺の気持ちは知らないだろうね

……そうだね。私は、君がどうして私の隣にいてくれるのかがわからないよ

そりゃあ、君のそばにいないと死んでしまうからだよ

 それだけ、と訊くのを、少女はためらった。肯定されるのが怖かった。

 私は君が好きなのに。


 この青い細菌みたいに、心の中に広がっていったのは恋心だ。

 毎日毎日、君を想って、眠りについた。何度も、君に抱かれた。

私は、自分が大好きだ

 少女は座って、青年に再度、もたれかかる。

 少女の機嫌を損ねると、自分の命が危うくなってしまうことを知っている青年は、それを拒むことはない。

これは浮気だよ

なんの話をしているの?

 少女は答えない。君を好くことがおかしいと思えるほど、私は自分が好きだ。


 自分が好きだから、世界は滅ぼうとしている。




 怖かった。

 青い細菌の研究が終わったら、研究者である青年は少女を捨ててしまうと、少女は心のどこかで思っていた。私なんか、要らなくなってしまうだろう。


 天才である青年を殺してしまうことも考えた。

 そうすれば、青い細菌の研究は滞る。もしかしたら、最初からやり直さないと、ということになるかもしれない。


 でも、そうしたら青年がこの世の中からいなくなってしまう。

 それは、辛い。愛する人がいなくなってしまうのは、耐えられないと、少女は思った。

 だから、扉を開けてしまった。




 自分勝手だ。自分が死ぬのも、彼が死ぬのも、彼が離れていくのも、何もかもがいやだった。






 青い細菌を体内に所持している彼女は、とある施設で厳重に隔離されていた。

 彼女は、彼女がいるその部屋では、自分の体のみが青い細菌に蝕まれてしまうことを知っていた。気圧や湿度の関係だと聞いたことがあるが、詳しいことは知らなかった。

 奇跡的なバランスで、青い細菌が外に漏れないのだと言うことは、知っていた。

 そして、外に出れば、自分の体以外が青い細菌に飲み込まれてしまうことも。





 彼と一緒にいたくて。

 彼女は世界を捨てた。



すごいなあ

 青年は立ち上がって、圧巻だと笑った。彼はもう、危機感も何もかも忘れてしまっているのかもしれない。

 少女は彼を見上げると

すごいねえ

 と他人事のようにつぶやいた。

神様になったような気持ち?

 少女は、その嫌味にしゅんと視線をおとした。
 当たり前だ、自分はわかっていなかった。


 自分勝手な私を、彼が好きになってくれるはずないのに!


 そのことに気がつかず、外に出た私を恥じた。
 これは、罰だと少女は思った。



 高い高いビルの上にのぼっていると、地上の音は聞こえない。

 たくさんの車、あてもなく走る人、止まる電車、絶望して叫ぶ人、暴れる人、抱き締めあう人、人、人。

 みんな、青くなってしまうのだ。

ごめん

 青年が、彼女を抱き締めた。彼女は目を大きく見開く。

偉そうなことを言って。

俺だって、君のそばにいるってことは、我が身がかわいくてしかたがないってことなんだ。

俺だって同じ。君のそばにいれば生きられるだなんて言って、偉そうに、生にしがみついているだけで……

 弱々しく震える彼を抱き締めた。後頭部に、小さくキスをする。

 ふと、いっそこの場で抱き合って、子どもでもできてしまえば、彼は私のそばから離れられなくなる理由がさらにできる、と考えて、泣きたくなる。


 この期に及んで、愛してほしいなんて。


 青い世界が広がるなかで、それでも、確かに彼に抱かれたくて、強く、抱きしめる。













……だめだ、うまくいかない

 少女はベッドの上で、レポート用紙を静かに折り畳んだ。青年が、

何を書いていたの


 と微笑む。

私がこの部屋から出たらどうなるかなって、想像して書いてた

へえ

 青年はベッドに座り、少女の頭を撫でる。

 少女は彼に寄り添いながら、長いため息をついた。

どうなった? 世界は滅んで、俺らだけになった?

うん、それで、私はひとりぼっちで、寂しいまま、なんか……愛欲に溺れて、最後は官能小説みたいになった

官能小説?

 くすくすと青年は笑って、むすっとしている少女の額にそっとキスをする。

なんで君がひとりぼっちになるの。

俺を見捨てたの?

見捨ててない。

でも、君は私のことを嫌いになっちゃった

そんなことないって、何回言っても信じないよね

 困ったように青年は笑い、少女にキスをした。

 少女の唇は反応せず、ただ青年の唇をうけとめるだけだ。

……いつだって、外に出ていいんだよ

 青年は、静かに言った。

 きっと監視カメラは二人を気遣ってオフにされているだろうが、それでも、万が一を考えて、なるべくカメラに映らない位置に唇を持ってきて、青年は続ける。

君の中の青い細菌は世界に出ていくだろう。

君は長く生きられる。

でも、世界は青い細菌に埋め尽くされるだろう。

君と、君のそばにいた人だけしか生き残らない。
青い細菌は、一度離れたすみかに戻りたがらないから。

そこに俺を入れてくれても、入れてくれなくても、俺は構わない

……なんで

 
 少女のの頭の中は、心の中は、ぐちゃぐちゃだ。

 

外に出れば、私は助かる。
この中にいれば、私は青い細菌に飲み込まれて、死んでしまう。


外に出て、私のそばにいる彼は、私と一緒に助かる。
この中にいれば、その逆。彼は私と一緒に青い細菌に飲み込まれて、死んでしまう

なんであなたは、出ていかなかったの

 青年の青い髪を、少女は撫でた。


 青い髪は、感染の印だ。

 愛しているからと、彼は当たり前のように少女のそばにいて、当たり前のように感染した。

 青年はもう、この部屋を出ることができない。


 それでも、少女より深い青色は、まだ、感染初期の症状だ。

 外に出た場合、彼は彼女のそばを離れることができない。
 離れたら、青い細菌に飲み込まれ、死なないまでも、もがきくるしむことになる――というのが、青年の仮説だった。


 彼が少女と同じぐらいの症状になるまで待つと、今度は彼女が助からない。



 どちらにせよ、一緒にいることになる。
 青年は、それを幸せなことだと言った。

本当は、君に未来も時間も何もかもを捨ててほしい。
そうして私と心中してほしい


 少女は、涙する。うん、と青年も涙する。

それでも本当は、世界が消えてしまえばいい。
そうも、思っている。君と生きたい。二人きりでも構わない

どうしようか


 少女は、何度目か分からない問いを投げ掛ける。

私たちの世界が終わる方がいいのかな。

私たちが世界を終わらせる方がいいのかな


 少女は、青年を抱きしめ、青年は、少女を抱きしめる。

どちらにせよ、だね


 青年は、優しく言う。











どちらにせよ、世界はもうすぐ終わるんだ。









 

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