クラスでは成績トップ、家事だってお手の物、趣味は貯金。顔もそこそこに可愛いはずの花も恥らう十六歳、天下無敵の女子高生。
 そんな私には大きな悩みの種がある。とはいってもこれまでの人生、その問題で特に悩んでいたことはなく、しかしこのまま放置を続けているといつかきっと悩まされる、そんな不可避の残念な未来が訪れるはずなので、今はとりあえず『それ』を私の悩みであるということにしていた。
 いつ悩まされるのかな、十年後かな、二十年後かな、もっと早いかな、遅いかな、そんな呑気なことを考えていた私だったのだけれど、『それ』がもたらした問題はある日の夜、一切の予告もなしに訪れた。




みんな、俺は異世界に行ったんだ



 私がリビングのソファに腰掛け、Mステなどをダラダラ観ていると、色のすっかり褪せたポロシャツを着た兄が二階から降りてくるなりそう言った。



そうなんだ、すごいね



 それだけ言葉を返して私はテレビに映るタモリに視線を戻す。
 しかし、今起きていることが割と珍しい事態であるのに気付いた私は関心を再び兄へと移した。



あれ、お兄ちゃん。そういえば久しぶりにリビングに降りてきたね。どうしたの?



 洗い物をしていた母が皿を磨く手を休め、目を見開いて兄を見つめる。庭で犬にエサをあげていた父も、驚きに満ちた表情で兄を眺めた。



だ、ダイちゃん……今日はどうしたの? 
珍しいじゃない。まさか、もう部屋に篭らないですむようになったの?



 少しの焦りと期待が混じった顔で、母が兄に問いかけた。兄はといえば息を荒くして、私達三人のどちらを見つめるでもなく、体重三桁はあるだろうずっしりとした肉体を所在なさ気に構えている。髪もヒゲも伸びっぱなしだ。風呂にも満足に入っていないからか、肩にフケのようなものがおりている。
 みんなの関心が、兄の告げる次の言葉へと注がれている。



だから、俺は異世界に行ったんだよ。そこで、魔導戦士として戦っているんだ



 糸のように細い目をギラリと輝かせ、兄は堂々とそう言い放った。しかし、私も母も父も庭の犬も、その言葉への理解にはまだ追いついていない。




 兄。この人が私の『悩みの種』である。先程も言ったように、正確には『これから悩まされるはずの存在』だった。
 今年で三十一歳、私と十五も離れた兄である彼は今から十年前、専門学校でのイジメを期に部屋に引きこもるようになった。以来食事と入浴・排泄以外、滅多なことでは部屋から姿を見せることがなかった。
元々気が弱い性質であった……らしい。『らしい』というのは彼が引きこもり生活を始めた頃、私はまだ六歳で他人の性格を見定める能力を充分に備えていなかったからだ。
 しかし、稀に部屋から出た彼と会話をすると、本当にわずかな時間ではあるけれど、幼い私に内緒で小遣いをくれたり(もっともその金は父や母からもらっているようで、どっちみち本人が外に出ないのでは使い道が無いようにも思える)、熱を出して寝込んだときは夜中にそっと濡れタオルを変えてくれたり、学校でいじめられてはいないかと声をかけてくれたり(本人がイジメによってこのような環境に陥ったのだから尚更心配なのだろう)、私からすれば兄によってほとんど困った思いをしたことがなく、時々会話ができて少々維持費がかかるだけのインテリアのような存在だと思っているので、現状では『悩み』と呼ぶ存在へは至らないのだ。もっとも両親からすれば深刻過ぎる悩み以外の何物でもないのだけれど。

 もちろんこれも先述の通り、現状のままでは私にとってもいずれ兄は大きな悩みとなる。私が結婚などしようときに相手方の家族にどう説明するのか。そもそもこんな暮らしが長く続くわけもない。兄の面倒を私に押し付けられたら?

 で、今である。

 ずいぶんと久しぶりに家族全員の前に姿を見せた兄の突然過ぎる告白は、私達を困惑させるのに充分過ぎる破壊力だ。破壊されたのかもわからなくなるほどなのだから。


ダイスケ……お前、一体何を言ってるんだ?



 数年後には定年退職を控えた父が、低く乾いた声で問いかける。



し、信じてもらえないかもしれないけどさ、俺、ある日突然異世界へとワープしたんだ。俺の魂だけが、この世界とは異なる次元に存在するもうひとつの世界『ナ・ローウ』に転生したんだよ。
そこで俺は『悠久の騎士(ナイト・オブ・エターナル)』の能力に目覚めて、『ウィザーズ・ギルド』のみんなと『魔王軍』の者達との戦いへ……

ま、待て



兄の早口を父が制した。



何を話しているのかさっぱりわからん。
最近読んだ漫画の話か? 
それとも今朝観た夢の話なのか?

だから、俺は別の世界の人間になったんだよ。そこで戦士として戦ってきたんだ



 私の脳内でとある雑誌が思い浮かんだ。『前世で光の戦士だった同士を探しています。ペンフレンドになりませんか?』『私と同じく霊界の門を開く宿命を持った者達よ、連絡を待つ!』などといった文面が踊るタイプのやつだ。


私、お兄ちゃんがオカルトに傾倒していたなんて知らなかったよ

馬鹿、オカルトなんかじゃない。これは本当の話なんだ。俺は戦士として熾烈な戦いを繰り広げてきたんだよ



 すると、母が笑顔とも何ともつかない微妙な表情で兄へと近づいた。



わ、わかったわ。ダイちゃんはそういう仕事に就きたいのよね? ね?



 どういう仕事だよとツッコみたくなったがそこは堪えて、私は兄の言葉を文面通りに理解することをとりあえず保留して、これはいよいよだと思った。

 兄は自己主張が少ない。部屋から出てくることを拒む以外の目立ったワガママを滅多に口にしない。ただ、篭るばかりである。時折私と話をしている短い時間でさえ、頷き役に徹することも多い。最近はその機会にもご無沙汰ではあった。
 そんな兄が今、引きこもり生活十年目の特にめでたくないアニバーサリーイヤーにしてようやく、内容はどうであれ家族に向けて自発的に何かを大きなことを訴えかけている。これは変化の兆しなのかもしれない。いい方向に傾くのか、悪い方向に傾くのかはわからないけれど、ただ篭るばかりの人間だった兄が何か大きく変わろうとしているのだ。今のところ悪い予感しかしないけれど。

 これはもう、兄に関する苦悩を両親二人だけに背負わせるわけにはいかない。

 分別を知らない子供の時期を終え、私にもついに兄という現実問題と直接向き合う日が訪れたのだ。十六年の人生で初めて見る兄の意気込んだ姿に、私はそんな気がしていた。


はいはい、お兄ちゃん。
とりあえずさ、座ろうよ。みんなも座ろう?



 私はソファからみんなを手招いた。
 四人がソファに座ると、少しの沈黙が流れた。父と母は落ち着きのない様子で指をいじったり呼吸を整えたりして、誰かが静けさを破るのを待っている。
 こうしてひとつのテーブルをはさみ、家族四人が席を囲んだのも十年ぶりのことだ。いつもは何かがひとつ欠けているリビングが、今日はなんだか新鮮に思える。
 兄はこの十年で、どうやら自分の意思や主張を伝える術がだいぶ下手になっているように思える。父と母は冷静さを取り戻すまであてにならない。私が兄から話を引き出し、この家族会議を円滑に進めるほかなかった。



じゃあお兄ちゃん。
とりあえず、その『異世界に行った』って話をもうちょっと詳しく説明できるかな? 
十年も家から出てないお兄ちゃんがいつ行ったの? 交通機関は?



 私の質問に、兄はあうあうと言葉にならない声を出して困惑するばかりだ。これは骨が折れそうだと思った。



ごめん、質問が多かったね。
まず、お兄ちゃんはいつ異世界に行ったの?

い、一年前から……

一年も前? 
いや、その前に一年前『から』ってことは、何度も足を運んでいるわけ?

あ、ああ。俺が行かないと、あっちの世界がヤバいから……理解できないかもしれないけれど



 たしかに話だけを聞けば、兄が私達の理解が及ばなそうなヤバい世界にイッてる感じではある。



わかった。お兄ちゃんはその世界に行って、えと……『魔王軍』とやらと戦っているのね。お兄ちゃんがいないと魔王軍には勝てなくて、だからお兄ちゃんが必要とされている、ってことでいいのかな

そう……俺はあっちの世界では実は最強の魔法、『暗黒浄化無限導術(ゼロダークネス・マター)』の使い手で、『聖者の祈りを秘めた剣(セイントエクスカリバー)』を操り、『光を受け継ぎし魔竜(エターナルドラゴン)』に乗って『悠久の大地(フェルネシア)』を駆け巡りながら、大切な仲間である『大地の王たる拳闘士(ザ・ランドマスター)』や『幻惑の精霊賢者(フェアリーオブウィザード)』や『伝説の紅き海賊(ジョニーデップ)』を引き連れて

待って待って。ルビが多い。キラキラネームじゃないんだから



 私は傍にあったメモ帳に、兄の言葉を逐一書き記していく。どうやら兄が定期的に通っているという『異世界』とやらは、現代日本とは違い剣や魔法が存在する世界のことらしい。RPGのような世界かもしれない。
 ゲームのやりすぎ、もしくはその手の小説の読み過ぎか。
 父と母は話題に全く介入できず、私と兄の会話を困惑しながら聞いているだけだ。


で、お兄ちゃんはそこで魔王軍っていうヤバい敵と戦っているわけだ。すごいね



 私がそう言うと、兄は少し照れくさそうな顔を見せた。久しぶりに誰かに褒められたことが余程嬉しいのだろう。
 しかし、肯定はここまでだ。もちろん、私は兄の話を信じているわけではない。兄の言葉を尊重してやりたいのはやまやまなのだけれど、ここまで素っ頓狂な話を丸呑みしてその場は兄の気を良くしても、それによって現状がいい方向に向かうとは思えなかった。この妄想冒険譚をさらにこじらせようものなら、それこそ兄は本当に元に戻れなくなってしまう。かといって真っ向から否定する気もない。

 私は細やかな質問で探りを入れる。兄の言葉の中に、兄が本当に伝えたがっていることを見つけるために。




で、お兄ちゃんは最初、どうやってその異世界に行っちゃったの?

トラックに轢かれて、気が付いたら

十年も家から出てないお兄ちゃんがどうやってトラックに轢かれるのよ



 私のツッコミを受けて、兄が急に声のボリュームを絞り始めた。



それは、だから、その……

ていうかお兄ちゃん、嘘が下手だね……もっとこう、ないの? 
たとえば、いきなりネットゲームの世界に飛ばされちゃいました、とかそういう手垢のつきまくったオリジナリティの欠片もない設定でも適当にでてきそうなものでしょう

じゃあそれでいい

それでいいってなによ

ていうか、そもそも嘘じゃない。
本当なんだよ



兄が懇願するような表情で訴えかける。



俺は確かに、この一年の間、異世界で戦い続けたんだ

……で、魔王は倒せたの?



 私は訝しげな表情で尋ねた。


ああ、こないだやっと倒した。辛い戦いだった。だからそれを、みんなに伝えたかったんだ



 その瞬間、兄の顔は少し晴れやかなものになっていた。



へえ、そんなに辛かったんだ。そもそも、なんでお兄ちゃんが魔王と戦うことになったわけ?

えと、実は異世界のある国にお姫様がいて、そのお姫様がひょんなことから俺にいれこむようになって、そのお姫様のトラブルに巻き込まれたらたまたま俺の能力が覚醒して、それでトントン拍子に魔王を倒す方向に話が転がって……



 ひょんなこと、たまたま、トントン拍子。

 随分と都合よく話が進む。必然性と具体性が欠落している。申し訳ないことを言うけれど、兄のようなルックスに突然惹かれる女性なんて想像できないし、性格で惹きつけるためにはいささか人見知りが過ぎる。

 兄は話を続けた。



で、魔王を倒すには『七色の光を放つ羽根』が必要で、それを手に入れた俺達は……

七色の光を放つ羽根とやらはどうして必要なの?

あっ、ま、魔王の力を弱体化させるための、魔法の詠唱に必要で、だから、それで……

その魔法は誰が唱えるの? お兄ちゃん? 魔法っていうのはどういうシステムなの?

えと、それは、姫が、えっと……

そもそもそのお姫様ってのはなんていう国の人なの? どういう言葉を話すわけ? なんでお兄ちゃんにそんなに入れ込んでいるの? どういう性格? どれくらいの経済力の持ち主なの? てか本当にお姫様? 名前は? 年齢は? ツイッターのアカウントは? てかLINEやってる?

えっ、あっ、あっ



 そこで私は我に返った、目の前では返答に詰まった兄が、口をパクパクとさせながら冷や汗を吹き出している。
 失敗した。私が話を回さなければいけないのに……兄に向けて小さく頭を垂れてみせた。



ごめん。また質問が多かった。私、せっかちだからさ。少しでも多く話を聞けば、お兄ちゃんの言いたいこと、理解できると思ってた



 私は小さく息を吐く。


でもさ、お兄ちゃんのこと疑いたくないけれど、やっぱりこんな話、いきなり信じろって言われても無理だよ。どうせ、証拠もないんでしょう?



 兄が何度も頷いてみせる。同じタイミングで、午後九時を知らせる鳩時計の音がリビングに響いた。



う、うん……わかってる。それはわかってるんだ……ただ、誰かに伝えたくて。知って欲しくて……



 私はその言葉を味わうように噛み締める。より深い理解にたどり着くために。

 兄は自分の成し遂げた『偉業』を私達に知ってもらいたかった。ただ『異世界』に行きましたというだけの旅行記ではない。自分は引きこもるだけの存在にあらず。人知れず、世界を救っていたのだと。

 しかし、それは兄が十年間暖め続けているイスの上で作り上げた夢物語にすぎない。この世界には魔法も魔王も七色の羽根もない。兄は妄想を誇っている。それも、理解されないだろうとわかったうえで。
 私にはなんとなく察せていた。兄はまだ『狂って』いない。関わりあいの機会は少ないとはいえ、それでも同じ血が流れる兄妹だ。彼の目を見て、口ぶりを感じていれば、正気の範囲で物事を話していることがわかる。

 だから、私は兄の言葉に何かメッセージのようなものを感じ取りたいのだ。本当に自分の戦いを誇りたいだけだとは、どうしても思えない。しかし、どうにも要領を得なかった。実の兄なのだから、すぐに真意を聞きだせるだろうとタカをくくっていたのかもしれない。

 今、兄にはどういう理解が必要なのか。できる限り兄の心を惑わさず、彼の心を掘り下げるための言葉を思案していた、その時だった。



ダ、ダイちゃん!



 イスの音を立てて母が立ち上がる。兄が肩をビクッと震わせた。母は引きつった作り笑顔で兄の顔を見つめている……のかもしれない。私には、どこか明後日の方向を見ているように思えた。



す、すごいわね。ダイちゃん、魔王を倒したのよね。昔っから、正義感の強い子だったものね。偉いわあ、流石は私達の子供ね



 兄はまた、照れ笑いを浮かべている。兄の話の半分も理解できていないだろう母は、それでも今の自分に思いつける限りの言葉で兄を褒め倒していた。
 私は母のその言葉と態度に少しムッとした。私が学校でいい成績を出しても、ここまで褒めてはくれない。たとえそれが、ご機嫌取りの世辞であったとしても。



そ、そんなに褒められたことじゃないよ……

ううん、立派だわ。他の人じゃなかなかできない。やっぱりダイちゃんはすごい子なのよ。何でもできる子なの。ね、ダイちゃんは昔から私達の自慢だったんだから



 もう兄の話を理解することを全放棄してしまったのだろう。母はとりあえず、兄の言葉を全肯定する方向へ舵を切ったようだ。まくし立てるように賛辞を投げかける。
 次第に、兄の顔からそれまでのわずかな笑みが薄れていくのを、私は感じ取った。



ダイスケ……それで、お前はこれからどうするんだ?



 父がようやく、重たい口を開いた。



お前がその異世界とやらで戦ってきたのはわかった。だから、もういいだろう? 
肝心なのはこれからだ。お前がしたいことは一体なんなんだ?

お、俺は……



 父の問いかけに、兄はまた返答に詰まる。



まさか、また部屋に戻ったりしないよな?



 それまで困惑の中にいて所在なさげにしていたとはいえ、そこはさすがの大黒柱。低く乾いた声による父の追求が、四人に流れる空気を重たいものに変えていく。



ダイスケ、お前ももう三十一だ。そろそろ社会に出て、仕事を見つけて、お嫁さん貰って、な? 社会復帰しよう。
周りのみんなも、とっくに家庭を持ったりしてるんだぞ? みんなお前が部屋から出てくるのを待ってるんだ。
お前ならできる、だから頑張れ、な、ダイスケ? やれるよな? お前は魔王を倒した子なんだから

そ、そうね。ダイちゃんなら何でもできるわ。立派な子なのよ。なんたって勇者さまですもの。だから頑張って、ね?



 二人の表情からは、言葉からは、兄の話を全く信用していないということが露骨に伝わってきた。私も信じてなどいないけれど、ここまでわかりやすく信じたふりはできなかった。
 兄の表情には深い陰りが見えた。何も語らないまま、じっとうつむいてテーブルを見つめている。
 私はすっと、自分の心が冷めていくのを感じていた。兄の思いを引きずり出そうと躍起になっていた、それまでの熱気が急速に大人しくなっていく。



二人共、ちょっと落ち着きなよ

お前は黙ってなさい。今は、ダイスケが真人間に戻るためのいいタイミングなんだ



 真人間……私はそれまで、兄をまともな人間だと思わなかったことがなかった。剣や魔法やお姫様といった与太を話し続けている部分だけ切り取れば、たしかに真人間とは言い難いかもしれないけれど、二人にとって兄は今にかぎらず常に『まとも』でない状態だったのだ。これは私と二人の、これまでの問題の向き合い方に因る意識の差なのだろうか。
 先程までの兄には、私の姿がこの二人と同様に映っていたのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。



なあ、ダイスケ。わかっているな、私達の思いが。みんな、お前を心配しているんだ。こんなこと長くは続かない。いつまでもワガママは言っていられないんだ。だからそろそろ、自分の将来のためにも

そうよ、ダイちゃん。私達にできることなら、何でもしてあげるから。
とりあえず外に出てみることから始めてみましょう? 
お仕事も、お母さん達が見つけてくるから。あなたはひとりじゃないのよ?



 兄は身体を震わせ、蛇に睨まれた蛙のように汗をタラタラと流し続けていた。
 やがて、思い切ったように立ち上がると、私達に背を向けて階段へと足を進めた。


お、おい、ダイスケ!



 父の呼びかけに振り向くこと無く、兄はゆっくりと階段を上がった。
 やがて、奥の部屋の扉が閉まる音が聞こえた。それはいつもより重く響いていたような気がする。
 兄は再び、殻に閉じこもる道を選んだ。失策を打ったことを、三人に思い知らせる選択である。



くそっ!



 父がテーブルを叩く音がリビングに響いた。母は顔を埋め、声をあげて泣きだした。

 私は関心を失っていた。兄にではなく、功を急ぐあまり目の前のチャンスをふいにし、再度の絶望に追いやられた二人に対してである。やがて私は立ち上がると、二階への階段をあがりかける。

 その中腹で振り返り、絶望にさいなまれる二人を見下ろす形で言った。



家族って、魔王より厄介だね



 二人が私の言葉を聞いてくれていたかはわからなかった。それは一体、誰が誰に向けて言うべき言葉だっただろうか。口にした当人である私にもわからないところだった。




 私は自分の部屋に戻ると、ベッドに身体を倒して天井を眺めた。代わり映えのしない風景である。兄は十年、この風景の中だけで生きているのだ。随分退屈ではないだろうか。だから、願望のような異世界への妄想が膨らんだのではないか。
 この世界のどこにもない風景。常識が覆る新鮮な文化。支えあって頼れる仲間。数々の苦難と喜び。自分に秘められた圧倒的な力。その何もかもが今の兄に与えられることのないもの。幻が見せた物語は、さぞかし心地が良かったことだろう。
 兄は今頃、また『異世界』へと飛んでいるのだろうか。魔王がいなくなった世界で、仲間達と新たな戦いへ挑もうとしているのかもしれない。今度はいつまでの冒険になるのか。
 私は兄から何が聞きたかったのだろう。兄が伝えたい言葉があるのはわかる。父や母が待ち望んでいた言葉もわかる。けれど、私は自分の願望として、どういう言葉を聞きたかった? もちろん、剣や魔法といった妄想話の類ではない。けれど、父や母が求めていたそれとも違う気がする。私はそもそも、兄に対しそこまで切迫した感情を抱いてなかったのだから。



 私には本当にあったのか――聞きたかった言葉が。
 ないものねだりをしていただけではないのか。



 じっと天井を見つめたまま、気が付けば三時間も経っていたらしい。日付が代わり、私は静かに身を起こした。





 部屋から出て、足を廊下の奥へと進める。そこは、私が十年間近づくことのなかった場所だった。それでもたしかに、そこにあり続けていた場所なのだ。
 固く閉ざされた木製の扉。その奥にもたしかに生活があり、そして異世界での物語も存在しているのだという。



お兄ちゃん、今大丈夫?



私は扉の向こうへ声をかけた。返事はない。



中に入れてよ。お兄ちゃんの話が聞きたくなったんだ




 それから少しの沈黙が流れ、やがて扉が静かに開いた。



……だめだ。部屋汚いから

男の部屋は汚いってことくらい知ってるよ。別に気にしてないし

……ちょっとだけ待って



 扉が再び閉まると、奥からゴソゴソと何かを動かす音が聞こえた。見られて恥ずかしいものがあるのか、十六歳の女の子が目にするには刺激的すぎるものでもあるのか、とにかく何かを片付けているのだろう。

 三分ほど経つと、扉が再び開いた。



……いいよ、入っても

はい、おじゃまします



 足を踏み入れると、部屋の中にはすえたような臭いが漂っていた。きちんと換気がなされていないせいだろう。けれど、耐えられないレベルではない。
 床の上には本やらゲームやらが大量に散らばっている。本当に片付けたのだろうか。片付けてこれなのだろうけれど。本棚にちらりと横目をやると、そこに積まれている本の表紙にはいわゆるオタクな人達喜びそうな可愛らしい美少女が、剣を持っていたり杖を持っていたりするようなイラストが載っている。
 なるほど、私達の前で話した夢物語の設定はこういった資料を参考にしているのか。私は足をぶつけないようにベッドに近づき、腰掛けた。




初めてだな。お前からこうして声かけてくれたの

そうだね。この部屋、あの二人でも十年間開けることができなかったのに、不思議。お兄ちゃんが引きこもる前は、よく勝手にこの部屋に入って怒られていたっけ

ああ、そんなこともあったかもな。
それで、何を話しにきたんだ?



 兄は少し身構えているように思える。それも当然だ。もし先程の父と母のような言葉を言われれば、もう逃げ帰る場所はない。



言ったでしょ。私は話をしにきたんじゃなくて、話を聞きに来たの



 私の言葉に、兄はきょとんとした表情を見せた。



聞きたいんだ、異世界の話。お兄ちゃんの大活躍をさ。話し足りないこと、いっぱいあるんでしょ。どうせやることもないし、明日は学校も休みだし

聞いたってつまらないよ。女の子が喜ぶような話でもないし

あ、そういうのアウト。今は女の子だって少年漫画を読むし、男の子だって少女漫画を平気で読む時代だよ。時代遅れだなあ

し、仕方ないだろ。ベテランの引きこもりなんだから



 その言葉の後、二人で笑いあった。久しぶりに、照れ笑いではない兄の本気の笑顔を観た。長い間世界を隔絶していたとはいえ、それでも人と人は同じ言葉で笑い合えるのだと思うと、私は少しだけそれが嬉しかった。



わかったよ。でも、何から話そうかな

あ、ちょっと待って

飲み物とってくる。どうせ、長くなるんでしょ?



 兄の話は大作映画にも劣らぬ、長編小説にも負けない、まさに壮大なファンタジーだった。
 飛び交う魔法、幾度もの困難、別れと出会い、想像を超える生物、繰り広げられた死闘……舌が錆付きすっかり話下手になった兄のたどたどしい語り口によって紡がれる冒険譚は、気が付けば私をとりこにしていた。
 生き生きとした兄の表情、息を呑む物語。時間の経過を忘れ、二人だけの間で語られるもうひとつの世界の出来事。
 結局はその全てが妄想であったとしても、私にはもう関係のない話である。

 話が終わった頃には、ぼんやりと朝陽が昇り始めていた。



まあ……そういうわけだったんだ。ごめん、長くなったな



 物語を語り終えた兄には達成感のようなものを感じ取れた。なるほど、これほどの物語を終えた後なら、言わずにはいられないものだろう。



ううん、すごく面白かった。
お兄ちゃん、すごかったんだね



 兄は高揚したまま、嬉しいとも切ないとも言えない表情を浮かべる。



お、俺……だから、できると思ったんだ

何を?

ここでも、この世界でも戦えるんじゃないかって……



 兄の表情が、切迫したものに変わる。



でも、ここには魔法も何もない。仲間もいない。あの世界とは何もかもが違う。
俺の中でいつの間にか、あの世界こそが基準になっていった



 私は兄の言葉へ、静かに耳を傾けた。


でも、あの世界で戦っていて、充実した日々を送っていても、わかっていたんだ。
俺には結局帰らなくちゃいけない場所があって、そこでも戦っていかなくちゃいけない。
でも、やっぱり怖かったんだよ



 表情に陰を落とした兄を見つめながら、私は少し嬉しかった。
 あのまま異世界の中で生きることを選び、自分の世界に閉じこもることもできたはずである。しかし、兄はそれを選ばなかった。私達と共に、魔法も魔王も自分に尽くすお姫様もいない世界で生きることを、自分の意思で選択した。

 兄のいた世界は、兄にとってとても意義があり、生きやすい場所だった。私のことを忘れてしまうのではないかというくらい。けれど、兄の中に私は、私のいる世界は生き続けていた。兄は私たちを忘れなかったのだ。切り捨てなかったのだ。それはきっと、戻りたかったわけじゃない。それでも、兄は戻った。切り捨てるわけにはいかない事実を、兄はきっちりと見つめ続け、逃げなかったのだ。

 そして私も今まで以上に、兄の存在を重く深く受け止めた。



でさ、仲間達に言ったんだ。
俺には、戻らなくちゃいけない場所がある。だから、みんなとはもう会えないって。
仲間はみんな、優しく俺を送ってくれた。だから俺には、みんなの期待に応える必要があるんだ……。
でも、親父たちの言葉を聞いているうちに、怖くなった。期待がこんなに恐ろしいものだったなんて。魔王と戦うときは、そうでもなかったのに変な話だよな

人の期待なんて、応える必要ないよ。褒められておしまいだもん



 私はそう言ったけれど、それはきっと兄のほうがより強く自覚しているかもしれない。褒められるだけのことに、どれほどしか意味がないのかを。



私だって、褒められたくて良い点数を取っていただけだけれど、最近はそれもちょっとね。この世界は確かに難しいよ。私みたいな子供が言うのも、変な話だけれどさ

もう立派なもんさ、お前は。俺なんかよりもずっと。いろんなことができる。今も、これからも

みんな、できることとできないことがあるよ。私、その異世界とやらに行ったところで生き残れるような気がしないな

そのときは、俺が守ってやるさ



 私はそこで、プッと吹き出した。こんなに頼りない勇者様がいるだろうか。


そうだね。いざとなったらよろしくね。
ま、期待はしないでおく

……たしか何年か前に、親父が言ってたんだ。叔父に頼んで仕事を融通してもらうから、働いてみないかって。
何かの職人だったかな。人と接することが少ない仕事らしい。あれって、今でも有効かな



 兄の口から就労の意思が伝えられて、私は目を丸くした。



もしかして、昨日はそれを伝えるためにリビングに?

ああ、やっぱりさ。働いてみようと思う。
期待通りの人生なんて生きられないし、ましてや勇者なんかにはとてもなれないだろうけれど、自分のいる世界の、自分の生きている範囲くらい、自分で守っていきたいからさ

いきなり働くの? 
まずは、これを自分で買いに行くところから始めたほうがいいんじゃない?



 私は意地の悪い顔で一冊の雑誌を手に取った。ずいぶんと肌の露出が多いお姉さん達が載っている。
 兄はハッとして、慌ててそれを奪い返そうとしたけれど、私はそれをひょいと躱す。



くそっ、全部隠したと思ったのに!

あ、じゃあまだこういうのいっぱいあるんだ。お兄ちゃんも男だね



 私は笑って本を放り投げた。兄の顔にも笑顔が浮かんでいる。



ま、お兄ちゃんの好きにやればいいよ。私は何も言わない。言えることなんて、あるわけないしね

ああ……ありがとうな。話、聞いてもらって

別に。聞きたくて聞いただけだし

……なあ。お前もいつか話を聞かせてくれないか?

私? 
私は別の異世界になんて行ってないけど

違うよ。どんなに細やかでもいい。妹の話に耳を傾けておきたいんだ。
この十年、お前がどんな思い出を作って、どんな成長をしてきたのかさ



 兄のはかなげな表情を観た時にふと、私の中にいつかの兄の姿が蘇った。お腹を空かせていた私にオムレツを作ってくれたこと、迷子になって泣きじゃくる私を見つけ出し、手を引いて家へと連れ帰ってくれたこと。
 少なくなってしまった思い出だけれど。これから作り話じゃない世界に向き合う兄となら、また新しく作ることができるだろうか。



そのうち、ね。お兄ちゃんもまた、面白い話ができたら聞かせてよ

……ああ、そうだな

ふああ、眠くなってきちゃった。私、戻って寝るね。おやすみなさい

ああ、おやすみ



 立ち上がった私は兄に背を向けて、扉へと向かう。



あ……!



 そのとき、私は床に落ちているものを踏んづけてしまい、足を滑らせて盛大に転んでしまった。




お、おい、大丈夫か!



 兄が駆け寄ってくる。
 尻餅をついた私は、痛みに耐えながら床を叩く。


痛い……もう、アザができちゃうじゃん!



 社会復帰より先に、部屋の掃除が必要だな……尻をさすりながら私は思った。
 そして足の上にひらひらと、私がたった今踏んづけて空に舞い上げたものが落ちてくる。



 それは、七色の光をうっすらと放つ一枚の羽根だった。




兄が突然『俺は異世界に行ってきた』と言い出した

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