その生物は、王都サフィーニにある冒険者宿『青石亭』側の路地影に、うずくまっていた。

……

何かしら? 可愛い

 そう思いながら、未知の生物にそっと近付く。

怖くないよ~

 そう言いながら、リィンはそっと、その生物を抱き上げた。大きさは、リィンが抱き上げて丁度腕の中に収まるくらい。ぬいぐるみのように柔らかいが、身体の温もりは生物のもの。

お腹、空いてる?

……

 リィンの質問に頷いたように見える生物を抱いたまま、青石亭に入る。

アズさん、シチューとパンお願いします
この子の分も

 リィンが掲げるように見せた生物に、アズは目を細めた。

その生物は、……おそらく魔物ですね

え? そうなの?

おそらく、見える人と見えない人がいるはずです

 アズの言葉に、半信半疑で、近くのテーブルに座っていた冒険者に腕の中の生物を見せる。

これ、見えますか?

いいや
何か、いるのかい

 返ってきた言葉に、リィンは目を丸くした。

まあ、特に今すぐ退治する必要はないと思いますが

 驚いたままカウンターに座ったリィンに、アズがシチューの皿を置く。

気をつけてくださいね

分かった

 アズの言葉に、リィンはこくんと頷いた。

 と、同時に。

リィン、いる?

リィン、いたっ!

 リィンの冒険仲間、ティナとサジャが、リィンの両隣に座る。

森の中で見つかった『歌碑』を調べたいから、お昼御飯の後でいいから一緒に来てって、お師匠様が

 ティナの言葉で思い出したのは、前の秋に出会った優しい怪物のこと。

怪物さん、無事かなぁ

 会いたい。心から、そう思う。大怪我の件で助けてくれたことにお礼が言いたいのか、それとも迷惑をかけたことを謝りたいのか、自分でも、自分の気持ちが分からない。それでも、会いたい。だから。

分かった

 作りたての魚のフライを頬張るティナに、リィンはこくんと、頷いた。

 腹拵えをしてから、ティナとサジャと一緒に、王都サフィーニの北西に広がる広大な森に向かう。

待っていたぞ

 ティナのお師匠様である老魔法使いがいたのは、やはり、自分勝手な冒険者から怪物を庇ってリィンが怪我をした場所、だった。

早速申し訳ないのだが、この『歌碑』を読んでくれぬか

はい

 沈んだ気持ちを誰にも悟られぬよう、俯いて頷いてから、おもむろに『歌碑』の方へと手を伸ばす。

……あ

……

 腕の中に抱いたままの生物のことを思い出し、リィンはサジャの方へ生物を押しつけた。だが。

……

嫌がってるよ、この子

 リィンの腕から離れようとしない生物に、正直困る。『歌碑』を読むと、リィンの体力は極限まで削られる。倒れたときに怪我をさせたくないから、サジャに預かってもらおうと思っているのに。

この子が離れたくないと思っているのなら、そのままにしておくのが良いのではないか

 老魔法使いの声に、仕方無く頷く。

ま、いっか
……倒れなきゃ、いいだけだし

 小さく温かい生物を抱き直してから、リィンは『歌碑』に触れた。
 冷たい石面に触れた瞬間の冷たい衝撃も、体力を吸い取られる感覚も、同じ理屈で古代の知識を封じている『石板』の読みとりですっかり慣れ親しんだ、感覚。

歌、だ

 ぼうっとしてきた意識に、サジャの声が響く。自分の口から紡がれる、自分は知らない旋律を、リィンは夢現に聞いていた。

綺麗

 サジャの賞賛に、微笑む。次の瞬間、リィンの意識はぷつりと、途切れた。

 冷たいものに頬を撫でられる感覚に、目を覚ます。

ここは……

 暗い空間を、そっと見回す。
 王都サフィーニにある、リィン自身の部屋の、ベッドの上、だ。すぐに、リィンはそれだけ理解した。おそらく、『歌碑』に体力を吸い取られてしまったリィンを、サジャとティナがここまで運んでくれたのだろう。しかしながら。……そのサジャも、ティナもいない。いるのは。

あ、目覚めた

 見たことのない、白く美しい女性が、ベッドに横たわるリィンに馬乗りになっているのが、見える。

やっぱり無尽蔵なのね、あなたの魔力は

 美しい女性の、細い指が、リィンの頬と額を撫でる。その指の、爪の長さと鋭さに、リィンは無意識に震えた。

あ、あの……

そんなに怖がらなくてもいいの

 そのリィンの震えに気付いたのか、女性は妖艶に微笑む。

それとも、この姿だと、怖く見えるのかしら

 そう言った次の瞬間。女性の姿は唐突に消える。その代わりとでも言うように、リィンの腹の上には件の、ぬいぐるみのような生物の姿が、あった。

え?

これは私の仮の姿

 驚くリィンの前で、ぬいぐるみが女性に変わる。

本来の姿はこれね

 再び妖艶に微笑んでから、リィンの上にいる女性はリィンの身体を身軽く抱き上げた。

最近、王都サフィーニ方面で美味しそうな匂いがしてたから、小さい生物に身をやつして探してたんだけど、こんな可愛いお嬢さんが、古代人と同じ種類の魔力を持っているなんて

 その声と共に、女性の柔らかい唇がリィンの首筋をなぞる。

本当に、美味しそう

え……?

 今すぐにでも、食べてしまいたい。あくまで静かな女性の言葉に、リィンの震えは止まらなくなった。

そんなにおびえなくても

 リィンを抱き締める、冷たい腕が、リィンの背をなぞり、髪を撫でる。

怖くないし、痛くもないわ
一瞬で終わるから

 このまま、為す術もなくこの人に食べられてしまうのだろうか? 助けを求めるように、視線を泳がせる。しかし、この場所にいるのはリィンとこの女性だけ。誰も助けては、くれない。頬に流れ落ちる涙を感じ、リィンは静かに目を閉じた。

 次の瞬間。

え?

 リィンを強く抱き締めていた冷たい腕が、不意に外れる。

これは私が先に見つけた、私のものだ

 支えを失い、ベッドに倒れ込んだリィンの前に現れたのは、どこか見覚えのある背中。しかし声には、聞き覚えはない。

勝手に手を出すな、妹よ

お兄様!

 驚愕する女性の声が、暗い空間に響く。

いつ元の姿に!
いたずらが過ぎて古代人に怪物の姿にされていたのではっ!

先刻、気が付いたら元の姿に戻っていた

 確かな腕が、リィンの身体を抱き締める。

あ……

 その腕の温かさは、……あの怪物のものと同じ。
 間違いない。この男性は、あの、怪物さん、だ。

お兄様ばかり、ずるい

 そう言いながら、女性がリィンの腕を掴む。

私だって、この子の魔力吸いたい

しかしこれは私のもの

 リィンを抱き締めた男性が、リィンを掴んだ女性の手を掴む。言い争いの原因はよく分からないが、二人とも、リィンの中にある『何か』が欲しいのだろう。リィンはそう、理解した。

……

 弟と喧嘩して、悲しい思いをした。あんな思いは、二度と、したくない。だから。

あ、の

 言い争う二人の間に割って入る。

半分こ、では、どうでしょうか?

 リィンの言葉に、二人はきょとんとした目をリィンに向けた。

は、半分、って

で、できないことも、ないが……

 今度は互いに顔を見合わせた二人が同時に口の端を歪ませる。

まあ、今日のところは、引き下がりますよ

 そう言って、女性の方が消える。

 リィンを抱き締めたままの男性は、リィンをじっと見詰めてから、微笑んだ。

半分にする方法を考えたら、また来よう

 そう言った男性の唇が、リィンの唇に重なる。

ファ、ファースト、キス……

 リィンの全身が熱くなるより先に、男性の姿も、消えた。

 はっと、目覚める。

リィン!

 割れるようなサジャの大声に、リィンはゆっくりと首を動かした。

良かったっ!
一日、眠ってたんだよ

 サジャの後ろには、あくまで表情を崩さないティナがいる。視界に入ってくる見慣れた天井に、リィンはほっと息を吐いた。ここは、……王都サフィーニにある、リィンの、部屋のベッドの上。

大丈夫?
うなされてたけど

 額に置かれた手拭いを換えてくれるティナに、頷く。あの恐ろしい出来事は、夢だったんだ。そう納得したリィンが次に思い出したのは、温かく強い唇の感覚。あの口付けまでが夢だったとは、思いたくない。

あの『歌碑』の力も分からなかったし、リィンには骨折り損ね

ううん

 おそらくあの『歌碑』が、あの怪物さんの呪いを解く鍵だったのだろう。そこまで推測し、リィンは一人、微笑んだ。

のほほん冒険者、憑かれる。

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