ヤーコプが自分――正確には彼ではないのだが――を気にしてくれる事に驚いたチャールズは若干戸惑いながらもそれに答える。それを聞いたヤーコプは満足そうに紅茶を啜った。
それにしてもチャールズ、ルイスは元気か?
え? ああ、ええっと、元気、みたいですよ? 私の机にまた新しい物語が置かれていましたし
ヤーコプが自分――正確には彼ではないのだが――を気にしてくれる事に驚いたチャールズは若干戸惑いながらもそれに答える。それを聞いたヤーコプは満足そうに紅茶を啜った。
あいつ不満溜まると少女誘拐でもしかねないからな……。チャールズは無害だからいいが
……ごめんなさい
いや、チャールズさんもどうしようもないんでしょう?
私の方ではどうしようもないんです……。どうもルイスの方が精神的に強いみたいで……。いつもご迷惑をおかけしてしまってすみません
小さく頭を下げるチャールズにヴィルヘルムとハンスはあわあわと首を振る。ヤーコプだけは話を聞いていないとばかりにパンを頬張っていたが。
そういえば、シャルルさんはいらっしゃらないんですね。これだけ集まったのに
あの野郎を呼ぶ気はない。絶対にだ
ここはハンスさんのお家だよ兄さん
チャールズの呟きに思い切り食いつくヤーコプ。シャルルとヤーコプは仲が悪いというよりは、シャルルがヤーコプをからかって遊ぶことが多いのでヤーコプの方が一方的にシャルルを嫌っているのだ。
と、突然ヤーコプの持っていた本がバタバタと暴れ始める。それを見たヤーコプは慌てて白雪姫に声を掛けた。
お前がいなくなったから小人が出て来ようとしてる。とっとと戻れ!
私、まだ紅茶を飲み終わってませんわ
後7人もこの部屋に出てこられたらごちゃごちゃして面倒なんだよ! いいから戻れっつってんだろ!
全く。ヤーコプは野蛮ですわね
そう言って髪をかき上げた白雪姫の姿が光を帯び、じんわりと線がぼやけていく。ヤーコプが本を開くと、白雪姫はチャールズに向かって笑いかけた。
それでは、御機嫌よう。チャールズ様、またいつかお話しましょう?
その言葉にチャールズが言葉を返す前に、白雪姫の姿は光となって消えてしまう。同時にヤーコプの本には白雪姫の美しい挿絵と共に物語が戻った。
ヤーコプが本を閉ざしてパンに齧りつくと、チャールズは少し寂しそうに目を伏せる。
あの女に騙されんな、最後にゃ自分を貶めた女を惨い方法で殺した女だ
それは物語の話でしょう。少しばかり寂しいと感じる程度、私にも許されることと思います
チャールズの言葉に、「確かにお前はルイスじゃねぇな」と呟いたヤーコプは咀嚼したパンを飲み下し、残りのパンを咥えたままチャールズの服の不自然なふくらみに目を向ける。
……お前、普段から自分の本は持ち歩くタイプだっけ? 俺やシャルルじゃあるまいし
ヤーコプに指差され、初めてそのふくらみ――即ち本の存在に気付いたらしいチャールズは慌ててそれを取り出すと、ペラペラとページをめくる。
……ルイスが勝手にやったみたいですね。問題は――
チャールズがヤーコプ達に見えるように大きく開いたページは白紙である。それが意味するのは、つまりそこに居た童話が抜け出してしまっているということを意味していた。
この世界に本来実在していたアリスという少女を元に物語を記すルイスの童話から彼女達が抜け出ることはこの世界にアリス・リデルを二人存在させてしまうということになる。勿論グリム兄弟やシャルル、ハンスの描く童話達が抜け出ることも混乱を招くために望ましい事ではないが、アリスの存在はその比ではない。同じ人間を存在させてしまうだけではなく、童話の中で数々の世界を行き来するアリスは、それ故に他の童話に入り込んでしまうこともあった。童話の中に入るすべなどない彼らにとっては、それが一番の危惧である。
アリス……この世界にまだ留まっているのでしょうか
イモムシかチェシャ猫……白ウサギでもいればいいんだけど
悪いけど、私の書いたものじゃないから、私が呼んでも反応してくれないのです……。ルイスを起こせば話は別でしょうが、そもそもルイスが指示通りに動いてくれるか……
真面目な三人が頭を抱えて思案し始めるのを見ながら、ヤーコプは徐にチャールズの頭を殴る。ハンスとヴィルヘルムが慌てはじめるが、それはヤーコプが急に理不尽な暴力を振るったからではない。チャールズが強い衝撃を受け、一瞬でも気が緩んだ瞬間、彼が現れるからである。
……くくっ、くはははははは! 感謝するぜグリム兄! ったくチャールズの野郎ずっとオレを奥底に閉じ込めやがってよォ、誰のおかげで作家として食ってると思ってんだってなァ!
今までの大人しいチャールズが一変し、荒い口調へと変わる。もう彼に大人しい吃音持ちの青年の面影は無く、どちらかと言えばヤーコプに近いような自信に満ちた表情の別人に変わってすらいた。それがチャールズの抱える悩みであり、“作家のルイス・キャロル”であった。
アリスが逃げた、協力しろルイス。出してやったのは俺だ
あン? ……まぁ、他でもねェグリム兄の頼みだ。叶えてやらん事もねェ。それに、アリスを可愛がっていいのはオレだけだ、他の誰かに取られちゃァ癪だもんな
そう言ってルイスが自身の本を逆さにし、本の背表紙をバンと叩くとそこからは一つの光が現れる。光はふよふよと空中を漂い、ルイスの前でぴたりと止まると次第にその大きさを広げ、やがて人影の姿になったそれは決まった一人の青年の姿となる。
おっと、ちっと間違えちまったか。まァ、こいつでも問題は無いだろ。なァ、“狂った帽子屋”?
美しい挿絵をそのまま抜き出したかのような、線の細い青年。マッドハッターと呼ばれた青年は、ルイスの言葉に微笑むと、仰々しく一礼をした。
ええ。彼女が居なければ我々のお茶会も酷く退屈なものとなる。一人くらいはまともな常識人を招かなければ、我々も“狂いがい”がありませんからね