とても綺麗に並べられた家具に、綺麗に磨かれた床。あまり大きな家ではないその場所で、青年――ハンス・クリスチャン・アンデルセンは幸せそうにうたた寝をしていた。
 でも、そろそろパンが焼ける頃だ。そう思ったハンスは、眠そうな目を擦りながらゆっくりと立ち上がる。彼が立ち上がった時に、ぴらりと一枚の髪が舞った。『死んでません。寝ているだけです』と記されたその紙を、ハンスは慌てて拾い上げ、綺麗に畳んでポケットに入れた。これが無ければ眠れない。
 

ハンス

さて、パンは上手に焼けたかな……

 かまどの中を覗き込むと、そこにはふっくらした綺麗な焼き色のパンが。それを見たハンスはいそいそとそれを取りだし、綺麗に並べる。
 そんな彼の幸せなひと時をぶち壊すのは決まってこの青年であった。
 

ヤーコプ

おいハンス! パン寄越せ! 焼けてるのは分かってる!

 無作法にも入ってくるなり大声を上げたヤーコプに、毎度のこととはいえ気弱なハンスはびくりと体を震わせる。直後に家に入ってきたヴィルヘルムはぺこぺこと頭を下げ、謝罪をした。

ヴィルヘルム

ごめんなさいハンスさん! 兄さん、毎度毎度それは失礼だって!

ヤーコプ

いいんだよハンスなんだから。お、良い色じゃねぇか。一個貰っていいか?

 ヤーコプの言葉に、ハンスはまだ怯えながらもゆっくり頷く、それを見たヤーコプは、パンの熱さを確かめながらそっと手に取った。

ハンス

ま、まだ熱いから、気を付けてね? ……お茶入れてくるよ、僕

 ハンスはその場から逃げ出すように奥に引っ込むと、がちゃがちゃとティーセットを用意する。満足そうにパンを頬張るヤーコプにヴィルヘルムはため息を吐いた。

ヴィルヘルム

もう……ハンスさんの事も少しは考えようよ

ヤーコプ

だが、お前だってパンを食いたいと言ったはずだ

ヴィルヘルム

そうだけど、そんな強盗まがいの事をしてまでは食べたくないよ

ヤーコプ

ちゃんと許可を取った

ヴィルヘルム

そういう事じゃなくて! ……ああもう

 もぐもぐとパンを咀嚼し続けるヤーコプにいら立ちを隠せないヴィルヘルム。そんな険悪な空気の中、ハンスはティーカップの載ったトレーを重そうに運んできた。

ハンス

気にしなくて大丈夫だよ。はい、ヴィルさんもどうぞ

 ヤーコプが無言でカップを取ったのを見て、ハンスはヴィルヘルムにも紅茶を勧めた。ヴィルヘルムは再びぺこりと頭を下げ、カップを手にした。

ハンス

遠慮しないで、ヴィルさんも食べて。どうせ元から君達の分も焼いてあるんだから

ヴィルヘルム

いつもごめんなさい、ハンスさん。ああ、そう言えば今日はカイとゲルダはどこに?

ハンス

ああ、あの子達はまだ眠っているよ。起こして来ようか?

 そう言って別の部屋に向かおうとするハンスを、ヴィルヘルムは構わないと引き留めた。名前を聞けば知る者も多いだろうが、カイとゲルダはただの人間ではなく、童話の中の存在である。そんな彼らがハンスと共に住んでいるのは、彼らがハンスの書いた物語の登場人物で、酷く好奇心旺盛だったからである。よく本から抜け出してしまう彼らを、ハンスは家事を手伝う事を条件に本から出ていてもよいという約束を交わしたのだ。

ヤーコプ

あんま出しっぱにしてっと、他の童話も黙ってないだろ

ハンス

いや、そうでもないよ。僕の童話は悲しい終わりをするものも少なくないからね

 その言葉に、ヤーコプは目を伏せた。ハンスの描く童話は死の救済を描くものが多いのは、ハンス自身そう考えていた時期があったからだろう。今でこそそれを感じさせることは少ないが、創作か収集家かは異なれど同じ童話作家である以上、ヤーコプも何か感じるものがあるのだろう。他の童話は黙っているものが多い、と言う事は、死の救済を良しと受け入れているものが多いという事だ。グリム兄弟の『赤ずきん』に登場する狼の様に、物語で死んでいるはずでも抜け出してくるようなものは自分の物語を良しとせず、新たな自分の物語を探すものである。
 カイとゲルダは自身の物語には満足しているだろうが、子ども故に他の世界を見たくて仕方がないのだろう。ヤーコプもヴィルヘルムも納得し、紅茶を啜った。

ヤーコプ

……まぁ、うちの童話がそれを見りゃ五月蠅いだろうからな。適当に時間が経ったら引込めろよ

ハンス

分かっているよ。彼らも、ここに居るべきではないのだからね

 目を伏せたハンス。しばらく、騒がしかったヤーコプも黙り込み、静寂が続いていた。

第一話 ② 気弱な創作童話作家

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