コーヒーの匂いが漂う屋敷の中、二人の青年が一冊の本を覗き込んでいた。本、というには不十分なそれは、ところどころページが白紙になっており、今彼らが開いているページも真っ白であった。
……だぁーッ! またかあの馬鹿狼は! あの女を助けるんじゃなかった!
どうしたの兄さん……。ああ、また?
コーヒーの匂いが漂う屋敷の中、二人の青年が一冊の本を覗き込んでいた。本、というには不十分なそれは、ところどころページが白紙になっており、今彼らが開いているページも真っ白であった。
シャルルの野郎に抗議してくる。あいつだろ狼の脱走を企てたのは
それは被害妄想が過ぎると思うよ! シャルルさんだって僕等が彼女を助ける話を書いたからって怒らなかったじゃない
いいや、あの男ならやるね。自分の書いたやつの方が正しいんだって、証明するはずだ
でも、"赤ずきん"は本の中に居るままじゃない
ん……そ、それもそうだな
ページを一枚戻り、片方の青年が指差したのは“赤ずきん”の物語の冒頭のページだ。確かに、そこには可愛らしい挿絵と共に赤ずきんの物語が描かれている。それを見たもう片方の青年は、ため息を吐きながら座っていた椅子の背もたれに背を任せた。
……あー、何かもうメンドくせぇ。実害が出たらでいいか……どうせまた抜け出すんだし
よくないよ! ほら、捕まえに行くよ!
青年に腕を引かれ、しぶしぶ椅子から立った彼は部屋から出ていく。片手にはその大きな本を抱えて。
彼らは作家であった。腕を引いた真面目そうな彼の名はヴィルヘルム・グリム。そして、気だるげなもう一人の名は、ヤーコプ・グリムという。彼らの仕事は童話を収集し、本に記す事。そして、今では誰も知ることの無い事ではあるが、彼らの記した物語は何も架空の物語ではない。いや、架空の物語ではなくなってしまうというべきだろうか。
――彼らの書く物語は、命を持ってしまうのだった。
やぁお嬢さん。よかったら、私とお花を摘みに行きませんか? 綺麗な花が咲く場所を、美しい貴方と見に行きたいのです
道を行く少女達に、手当たり次第に声を掛ける青年。青年の頭からはぴょこんと動物の耳が生え、腰の辺りからは動物の尻尾が生えている。しかし、それを気にするものが居ないのは、普通の人間にそれが見えていないからだろう。
だからと言って、青年の誘いに乗るものがいるかといえばその答えはノーであり、いくら彼が美青年であっても、今は物騒だから、と立ち止まって答えてくれる少女は誰一人としていなかった。
あーあー、これまた相手を選ばなくなったなお前
突然、後から掛けられた言葉に、青年は振り返る。そこに居たのは、ヤーコプとヴィルヘルムだった。
ああ、もうバレましたか。今回はいけると思ったんですが
何をもっていけると思ったんだ……流石にその脱走回数じゃあ、俺らだってパターン読めるさ。元は俺らが書いたわけだしな
失敬な。貴方に命を与えられたのは事実ですが、貴方に書かれたのではありませんよ。私と言う存在は、貴方が書き記す前から存在していました
変な知識つけやがって……ああ、ああ、そうだな。だから何だ本に帰れ変態狼
変態とはなんですか変態とは。プレイボーイ、と形容していただきたい
初対面の女をすぐさまいただきますしちゃうような男は変態だ。また腹裂くぞ
おお、怖い怖い。シャルル様の童話だった私は、あの優しい老婆や可愛い赤ずきんを腹の中に留めておくことも出来たというのに……これだからグリムは
シャルルの野郎の名前を出すたぁ、いい度胸だな……腹に石詰めて井戸に落としてやったってよかったんだけどな
ヤーコプが青年――狼を睨みつけると、彼は怖がって尻尾を垂らすとヴィルヘルムの陰に隠れた。
助けてくださいヴィルヘルム様、ヤーコプ様が私の腹を裂こうとするのです
まぁ……自業自得もあるからなぁ……
そんなご無体な!
じゃあ、大人しく本に戻るなら、兄さんを止めてあげてもいいよ
ええ、ええ、戻りますとも! 腹を裂かれるくらいなら!
その言葉に反応し、ヤーコプの手にしていた本が淡い光を纏い始める。それを見たヤーコプは、本を開き、赤ずきんの童話の途中、真っ白になってしまったページを開いた。
赤ずきんが寂しがってる。とっとと戻れ、変態狼
変態ではありません。仮に変態だとしても、私は――
狼の言葉の途中、彼の姿が光りだし、言葉を言い終わらない内にすっと彼の姿は消える。そうして、本の白紙のページには、元からそうであったとばかりに狼の姿が絵が描かれた童話の物語が記されていた。
さて、疲れた。ハンスにパンでも焼いてもらおうぜ
あ、僕もハンスさんのパン食べたいかも……お願いしてみよっか
道を歩く人々は、今起こった出来事から、不思議そうに兄弟を見るが、話しかけたりすることは無い。それが奇妙な出来事に対する人々の自衛手段だからだ。兄弟にとってはそれは都合が良かったが、どこか寂しさも覚えていた。
童話に溢れたこの町は、それ故に皆異常事態に警戒し、どこよりも人の繋がりが希薄になっている、と。