雨が降っていた。
 寒い。冷たい。心細い。
 爺さんともファンテともはぐれてしまった俺は、森の中をひとりきりで歩いていた。そして疲れ果て、大木の根本に座り込んでしまった。もう動けない。
 爺さん。ファンテ。
 声にならない声で二人を呼ぶ。
 ああ、これは俺が体験した過去だ。幼い俺が体験した、あの雨の日の出来事だ。
 じっと二人を待ちながら、凍えながら、俺はいつしか眠り込んでいた。気付いた時、誰かに抱きしめられていた。
 微かなぬくもり。人のぬくもりだ。
 俺を抱く腕に、銀色の花をあしらったブレスレットが揺れていた。
 俺はぎゅっとそのぬくもりにしがみつく。ぬくもりの元を全て奪うかのように。強く、強く。

???

もう怖くないからね

 彼女はそう言って、更に優しく俺を抱きしめてくれる。ああ、何て優しいぬくもりだ。俺が本当に求めるぬくもり。爺さんやファンテとは違う、俺を庇護してくれる優しいぬくもり。
 ぬくもりは得た。あとは渇きだ。雨の雫を舐める程度じゃ潤わない渇きを癒やしたい。
 俺は彼女の首筋に顔を埋め、込み上げてきた欲求をそのままに、牙を剥いた。

???

……そうか……そうだったんだね

 彼女はそう言い、俺に首筋を差し出してきた。自ら衣服の襟をはだけ、俺が吸血し易いように顔を背けて首筋を差し出す。

???

そうじゃないかと思ったの。あなたの目は金色だったから

 彼女の血が俺の喉を潤す。貪欲に血を貪る。
 甘く、辛く、切ない味が喉を潤していく。この渇きを癒せる、たったひとつのモノが、俺の喉を潤していく。

???

いいよ。どうせ死ぬつもりでここへきたんだもの。君の好きなだけ、私の血をあげる

 彼女はそう言い、そして……俺の方へと倒れこんできた。絶命したらしい。

幼いエンリケ

う、重……い……

 彼女の下から這い出た俺は……猛烈な吐き気に見舞われ、今、吸血したばかりの血を吐き戻していた。ゴホゴホと咳き込みながら、血を吐き、胸を抑えていた。
 胸が苦しい。腹の奥が痛い。吐き戻す血は止まらない。
 そんな中、俺は倒れている彼女の顔を見た。彼女の顔は安らかだった。安らかだからこそ、恐ろしかった。
 だから俺は、その場から逃げ出していた。闇雲に森の中を逃げ出していた。

 恨みがましい美晴の目がこちらを向いている。美晴は動かない。ぐったりと倒れて俺の方へと顔を向けている。そして俺を睨むような表情で、息絶えている。
 お、俺がやったのか? 俺は……俺は!
 美晴を殺してしまった。ほんの少しの吸血欲求さえ満たされればいいと思っていたはずなのに、彼女を殺すほどの血を奪ってしまうなんて考えてもいなかった。
 それはきっと俺が、血のにおいに酔ってしまっていたせいだ。だから加減ができなかったんだ。
 こんな自己防衛のための言い訳を幾らしたって、美晴の命を奪ってしまった事に変わりない。俺はなんて事をしてしまったんだ。
 最初はチャームの魔法が効いていたので夢の中にいたかもしれないが、この恐ろしく恨みがましい顔で死に至った美晴は、俺に血を吸われながら俺を呪ったかもしれない。いや、呪ったはずだ。死んでからも俺を責めているのだから。
 必死に自分に言い訳し、自分の軽率な行いを悔いていると、突然激しい吐き気に見舞われた。そして美晴の死に顔に恐怖を抱き、俺は口元を抑えながら逃げた。逃げて逃げて、そして老夫婦の待つ棲家へと戻り、トイレに駆け込んでゲェゲェと、美晴の血を吐き出した。彼女への悔恨と共に、大量の血を吐き出していた。

ファンテミオン

エンリケ?

 ファンテがいた。先に棲家に戻っていたのか、今戻ってきたのか分からないが、ファンテは俺の様子を見て慌てて俺に駆け寄った。

ファンテミオン

どういう事? あんたは吸血できる体じゃないでしょ? なんで血を吸ったの?

エンリケ

分からない! 分からないんだ!

 俺は血を吐きながら、美晴の血に酔っていた自分が怖くなる。
 棲家の外がにわかに騒がしくなった。パトカーや救急車のサイレンが一際大きく聞こえる。誰かが美晴を見つけ、通報したのだろう。
 その音を聞いて、ファンテは俺の背を擦りながら鋭く言った。

ファンテミオン

あんたヘマやったね? 今、この世の中で人一人死んだらどうなるかあんたも分かってるでしょ? どうしてそんなヘマやったの!

 ファンテが強気で責めてくる。だが俺だって自分の行動に説明ができないんだ。いくら問われても彼女が納得する答えは出せない。

エンリケ

分からないんだよ! 俺はなにかに引き寄せられるように美晴の血を求めた。死なない程度にって思ってたのに、気付いたら……

ファンテミオン

美晴をやったの!? なんであんたは……

 ファンテの驚きはもっともだ。俺だって顔見知りを、この牙にかける事になるなんて思ってもいなかったんだから。しかも美晴にだ! 桐原の妹をこの牙に!

エンリケ

俺だってヴァンパイアなんだよ! 血を求めて何が悪い?

 自棄っぱちになり、俺は叫んだ。ファンテは落ち着いた様子で俺を見下ろしている。責めるでもなく、落ち着き払ったファンテの様子に俺は怯える。いや、ファンテに怯えていたのではなく、俺自身に怯えていたんだ、きっと。

ファンテミオン

赤の他人でもヤバかったけど、あんたに近しい人間襲ったのは大きな失敗ね。足が付くのも時間の問題でしょ。一旦この棲家から逃げよう。しばらく行方眩ませて、別の場所で出直せばいいわ

 冷静に言うファンテ。俺もその方がいいと思ったんだが、脳裏をよぎったのは桐原の姿だった。
 桐原と離れる事になるのか? 当然だ。美晴を襲ったのは俺なんだから。
 だが何か魔法を掛けて黙っていれば、桐原だって俺が美晴をやったとは気付かないだろう。そして普段通りに……いや、無理だ。事実は変わらないし、そんな都合のいい魔法なんてない。
 俺は再び血を吐き戻し、便器の中を真っ赤に染めた。そして強引に口を拭い、騒がしい外へと走り出た。ファンテの視線から逃げ出して、一人になりたかったんだ。
 だが吸血と吐血で弱り切った俺が遠くに行けるわけもなく、俺は玄関を出た所で立ち竦んでいた。
 目の前を救急車が走り去る。美晴を見つけた誰かが通報したのは確実だ。俺はとんでもない事をしてしまったんだ。

ファンテミオン

エンリケ! 落ち着きなよ!

 追いかけてきたファンテが俺の肩を掴む。

ファンテミオン

とにかく荷物をまとめて。今夜中に出て行くからね

 そう言い残し、ファンテは中へと戻って言った。俺に苛立ちを感じているのだ。そのそっけない態度から、彼女の気持ちが手に取るように分かる。
 桐原にどう言い訳しよう。そればかりが俺の頭を駆け巡る。詫びたってどうしようもない事は理解してる。だって美晴を殺してしまったんだから。だけど俺はどうにか桐原に許してもらいたかった。桐原と離れたくなかった。
 その時、不意に目の前が暗くなった。

渇きを癒やすために(中)

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