約束の場所である屋上で桐原を待ちながら、俺は空をじっと見上げた。
 この空の下に爺さんはいる。いるはずだ。早く爺さんに会いたい。そしてどうして行方を眩ませたのか聞き出したい。
 そんな事を考えながら、俺は桐原を待っていた。
 しばらくして屋上のドアが遠慮気味に開く。そして桐原がひょいと顔を出した。

エンリケ

桐は……

 俺はそこで口ごもった。

美晴

やっほー、エンリケ!

 美晴だった。
 美晴は大きく手を振りながら俺の方へやってくる。そしてそこで悟った。
 普段は施錠されている屋上の鍵を開ける事ができるのは俺とファンテだけ。だから一般の生徒は屋上には出られないと思っているはずだ。
 そんな屋上を待ち合わせ場所に指定してきたのが、鍵の事実を知らない桐原のはずがない。昨夜の電話は美晴が桐原のふりをして掛けてきたものだったんだ。
 騙されたと感じた俺はキリキリと眉尻を釣り上げ、無言で美晴を睨む。

美晴

あんたたち、やっぱり付き合ってたんだ。昨日のエンリケはアタシをすっかり美雨だと思ってたもんね

 美晴はこまっしゃくれた笑みを俺にぶつける。嫌な奴だ! 俺は心底立腹する。

エンリケ

帰る!

 俺が踵を返すと、美晴は素早く俺の腕を掴んできた。

美晴

待って! 相談ってのは本当なんだから!

 俺は振り返り、美晴を見る。すると彼女はいつもの笑顔を崩し、今にも泣き出しそうな表情で俺を見つめていた。相談というのは本当らしい。そしてそれがかなり真剣なものであると。
 俺は美晴の方を向いて、頭を掻きながら口を開いた。

エンリケ

聞くのが俺でいいのかよ

美晴

エンリケしか相談できないから呼び出したのよ

 美晴は真剣な表情で俺を見つめてきた。

 美晴はゆっくり言葉を選びながら、俺に相談事を告げる。

美晴

美雨の事、なんだけどさ……その……なんていうか、最近ちょっと変なの

エンリケ

お前が嫌がらせをするからじゃないのか?

美晴

違うよ! そういうのじゃない!

 美晴が大きく首を振ると、ポニーテールが揺れていい香りがした。

美晴

昔はね。もっとあの子とも仲良くて、一緒に遊んだり買い物に行ったりしたんだよ? だけど美雨は変わってしまった。あの子が何を考えてるのか分かんなくなって、いつも無表情だし、纏う雰囲気が怖くなってきたの。別の誰かが美雨の体を乗っ取ったみたいに、別の誰かを見てるような錯覚をする時もあるくらい。昔の美雨はちゃんと自己主張もしたし、アタシと些細な事で喧嘩もした。けど、今はアタシが何を言っても気持ち悪いくらい従順で、そして影でひっそり笑ってるふうなんだもん

 美晴の言い分は少々破綻していて、理解しにくいものがあった。だが桐原が、美晴の知っている桐原と少し変わってしまったんだと言いたいらしい。

美晴

ねぇ、他人が美雨になりすますって事、あると思う? アタシや家族にもバレないように。そんな事、ありえるの?

 ヴァンパイアとしての俺の意見からすれば『ある』と言える。事実、俺とファンテがあの老夫婦の孫と正体を偽って、人間の中に紛れているから。
 美晴のいう過去の桐原を俺は知らないので、一概に変わったんだとは言えないが、この場合は他人がなりすます事なんて出来ないと答えるしかないだろう。俺たちの正体を明かす訳にはいかないから。

エンリケ

そんな摩訶不思議な事、ある訳ないだろ。美晴が強気で桐原を責めすぎるから、桐原も萎縮して美晴が怖くなっているだけかもしれないじゃないか

美晴

そう、なのかな……

 美晴は視線を自分のつま先に落とす。

エンリケ

一度桐原とちゃんと腹を割って話し合ってみればどうだ?

 今の俺にはこれしか言えない。迂闊な事を言って俺とファンテの正体がバレては困るから。

美晴

……そう、だね……

 美晴は力無く呟く。

美晴

でもアタシ……美雨が怖いよ。怖いから……強がってあの子を押さえるける事しかできない。美雨が怖い……

 こんなにショボくれた美晴の姿は初めて見る。あの強気で傍若無人な美晴が、ここまで怯えるなんて。

 俺は考えてみた。
 桐原は優しくて内向的な女の子だ。美晴は逆に、強気で快活な少女だ。二人は双子で、ずっと一緒に過ごしてきた。外見は瓜二つなのに中身は真逆。そういう事ってあり得るのだろうか?
 もし美晴の言葉を全面的に信じるなら、桐原が変わってしまったとしか言えない。だが美晴が自分の都合がいいように、桐原を精神的に追い詰めたのだとしたら。
 だとしたら美晴は随分酷い性格という事になる。だが今のショボくれた美晴の姿に嘘はないように見える。彼女は本気で桐原に怯えている。

エンリケ

桐原と話しあえよ

 俺はもう一度言った。これしか俺には言えなかった。

美晴

……そうしてみる。ありがと、エンリケ

 美晴はうんと小さく頷き、ぎゅっと両拳を握りしめていた。

 美晴を見送った後、俺は一人で屋上から三階への階段を降りていた。帰るために鞄を取りに行こうと教室に向かっていたんだ。
 すると特別教室棟の方から、髪をゆるく二つに結(ゆわ)いだ桐原がやってきた。美晴の相談を受けた後なので、ちょっと顔を合わせづらい。

美雨

あ……帰るの?

 桐原はいつも通りの優しい笑顔で俺に問い掛けてくる。さっきまでの俺の心のわだかまりが薄れた。

エンリケ

ああ。桐原も帰りか?

美雨

ええ

 桐原は手にした鞄を俺に見せる。

エンリケ

……じゃあ、途中まで一緒に帰らないか?

美雨

ええ。あなたさえ良ければ

エンリケ

じゃあ鞄取ってくるからここで待っててくれ

 俺は急いで教室から鞄を取って戻り、ふぅと息を吐いた。
 桐原が静かに歩き始めたので、俺も並んで歩く。無言だが、なんとなく楽しい時間だった。
 やっぱり俺は桐原が好きだ。美晴の言った事はきっと夢かあいつの勘違いだったんだ。そうに決まってる。

美雨

ダミルア君

エンリケ

なに?

 ふいに桐原が問いかけてきて、俺は彼女の方を向いた。

美雨

美晴と会っていたの?

 屋上から出てきた所を見られていたんだろうか? 俺は一瞬返答に困ったが、嘘を吐く理由もないので『そうだよ』と頷いた。

美雨

何を話していたの?

エンリケ

それは……

 ここでも嘘を吐く理由がない。だが話してしまって、桐原は傷付かないだろうか?
 散々逡巡した挙句、俺は美晴に相談された内容を手短に話す事にした。

エンリケ

桐原が、昔と変わってしまったって相談されたんだ。桐原は変わったの? 昔は今みたいに、おとなしい女の子じゃなかったの?

 問いかけると、桐原は困ったように片手で口元を抑えた。

美雨

……変わったのは……美晴の方

 それきりしばらく黙りこんでいたが、桐原は意を決したように口を開いた。

美雨

昔はわたしも美晴も、もっと仲良しだった。だけどいつの頃からか、美晴はわたしに、事ある毎に強く当たるようになってきたの。叩かれたりしたら嫌だから、わたしはあの子の言う事になんでも従うようになって、身を守るようになった

 美晴と逆の事を口にし、桐原はキョロキョロと慌てて周囲を見回した。美晴の姿を捜したのだろう。美晴に聞かれたくない内容だしな。

美雨

まるで何かに取り憑かれてるみたいに怖い性格に変わっちゃったわ。そういう事ってあるものだと思う?

 ここでも本来の俺なら『ある』と答えなければいけない。チャームの魔法を使えば桐原が言ったように、何かに取り憑かれたように他人を操る事ができるからだ。
 だけど言う訳にはいかない。俺やファンテの保身のために。

エンリケ

桐原はそう思うかもしれないけど、美晴だって悪気があってやってるんじゃないと思う。一度ちゃんと話し合ってみたらどうだ?

 美晴の時と同じ答えを返す。
 二人に同じ答えを返せば、きっと話し合えると思ったんだ。お互い一歩ずつ身を引いて、きちんと話し合えれば、姉妹の誤解も解けるはずだ、と。
 人間は何十年も何百年もかけて、こうして成長してきたんだから。

美雨

……そう、ね。そうしてみるしかないよね……

 桐原は視線を落としたまま力無く答えた。これは彼女の望んだ答えじゃなかったんだろう。だけど俺の考え得るどんな意見を言ったとしても、桐原は満足しなかったと思う。それだけ俺と桐原の関係は、まだ浅いから。
 これで良かったんだろうか? だけど人間の問題に、俺たちヴァンパイアが適切なアドバイスなんてできる訳がない。個々の意志を持つ者ではあるけど、俺達と桐原たちは違う生き物なんだから。

エンリケ

帰ろうか。遅くなるし

美雨

ええ

 俺と桐原は二人並んで帰った。

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