今日は待ちに待った、桐原と出掛ける日だ。朝からそわそわしっぱなしで、ファンテに訝しげな目で見られている。
今日は待ちに待った、桐原と出掛ける日だ。朝からそわそわしっぱなしで、ファンテに訝しげな目で見られている。
エンリケ。あんまり人間に深入りしない方がいいよ
うるさいなぁ。ファンテが心配するほど深入りはしてないさ。ちょっと一緒に出掛けるだけじゃないか
そうだけどさぁ
ファンテはしつこく言い寄ってくる。ファンテの奴、妬いてるんだろうか?
桐原を誘ったのは、助けてもらったお礼みたいなもので、俺の方にやましい気持ちは一切ない。自己満足ではあるけど、桐原だってたまには憂さ晴らしに出掛けたりしたいだろうから、彼女の事を考えて声をかけたんだ。
そりゃあ、桐原は可愛いし、そういう子に興味がない訳じゃないけどさ。
爺さん捜しならちゃんとやってるだろ。先週だって探知の目を飛ばしたし、毎晩の見回りだってやってるし
あんたのすべき事を忘れてないならいいけど、なんであの陰気娘なのよ? うるさい方でも嫌だけどさ
桐原はファンテが思ってるよりいい子だよ。気弱だけど優しいし
騙されてたりして
桐原に限ってそれは絶対ない
俺は断言する。
桐原は気弱でおとなしいが、それは他人を思いやる優しさや慈しみをちゃんと持ってるからだ。保健室にこもってるのも、内向的で人付き合いが苦手な自分を見た他人が、不安や不愉快といった感情を抱かせないようにと思っての事だろう。俺は桐原をそんな目で見てはいない。考え方を変えてやれるなら、いつだって付き合ってやるし、手伝ってやりたい。
桐原は絶対にいい子だ。俺は自分の目と勘を信じる。
エンや
あ、おはよう、じいさん
俺たちの棲家のじいさんがやってきた。じいさんからわざわざ話しかけてくるなんて、珍しい事もあるもんだ。いつもはばあさんが来るのに。
フミちゃんから聞いたが、今日は一緒の学校のお嬢さんとデートなんじゃって?
ああ。ねぇ、じいさん。俺の格好、変じゃないかな?
俺は現代のファッションには疎いから、学校帰りに町の人間を見て今日の服を決めたんだが、これでいいものかまだ迷っている。
ワシほどじゃないが、エン君はかなりイケてるぞ。ふぉっふぉっふぉ
少々抜けた笑い方をして、じいさんは顎を撫でている。
そっか、じゃあこの格好で……
ところで小遣いは足りてるかの?
それも大丈夫だと思う。いつも貰ってる分はあんまり使ってないから
小遣いは毎月貰っているが、俺もファンテも人間の服や物に頓着がない。だから使う事がなく貯まる一方なんだ。使うとすれば、せいぜいミネラルウォーターを買ったりする程度だしな。
女の子に恥を掻かせちゃいかん。ワシからの選別を持っていけ
と、爺さんは俺の手の中に数枚の紙幣を押し込んでくる。
こんなにいいのか?
孫の成長を見るのも年寄りの楽しみなんじゃよ。受け取りなさい。今度フミちゃんがデートの時は、フミちゃんにも選別をやるからの
ありがとう、おじーちゃん
俺は爺さんから貰った金を財布へと入れた。
本当に人のいいじいさんとばあさんだ。チャームの魔法が切れても、この老夫婦は穏やかに俺たちに接してくれるだろうか? いや、記憶も失くすから、赤の他人になっちまって、態度だってきっと変わるだろうな。それを思うと少し胸がしゅんとする。
俺とファンテはヴァンパイアと使い魔。いつまでも人間と一緒という訳にはいかないんだ。俺たちの爺さんが見つかるまでに気持ちをきちんと整理しておかないと。
俺は数回深呼吸する。
じゃあファンテ、じいさん。行ってくる。あんまり遅くならないように帰るから
ああ、行っといで
何かあったらすぐあたしを呼びなさいよ
ファンテとじいさんに見送られつつ、俺は家を出た。
植物園に来た俺は、腕時計で時間を確かめる。まだ約束の時間までかなりある。気を張りすぎてたのは俺の方かもしれない。
一人苦笑していると、前方からピンク色のワンピースを来た女がやってきた。印象が随分違ったが、それは桐原だった。
いつもの制服姿の桐原も清楚だと思ったが、ふわりとしたワンピース姿の桐原はもっと清楚で可愛らしく見える。俺はすっかり見とれていた。
桐原、おはよう。よく似合ってるな
お、おはよう……変じゃないかな?
いつも以上に戸惑うような口調と、恥じらう仕草が一段と初々しく見える。これには俺の心が思わずきゅんと鳴る。桐原、本当に可愛らしい。
そんな事ないよ。俺はお世辞とか上手くないから、本当の事しか言わない
ありがとう……ダルミア君に気に入ってもらえて嬉しい
桐原は僅かに頬を染めて小さく頭を下げた。
植物園の入園券を買い、二人並んでのんびりと展示された植物を見て回る。
俺は内心、あれは食える、あれは食えないと、食べる事ばかり考えていたが、桐原は何を思って植物を見ているんだろう? 少なくとも退屈はしていないようだ。今も花を見てチョンチョンと指先でつついている。
桐原、楽しい?
ええ。ダミルア君こそ、わたしと一緒にいてつまらなくない? わたしお喋りとか苦手だし、気の利いた事もできないし
全然。楽しいよ、俺
桐原は照れるように笑い、赤い花の前で立ち止まった。そして表情を曇らせる。
わたし、赤い花はあまり好きじゃないの
確かに桐原にはキツイ色味だよな
理由は分からないんだけど、昔から
ふうん?
桐原の意外な好みを聞いた。俺も赤い花はあまり好きじゃなかったんだ。なんだか血の色を連想してしまって。
ヴァンパイアだから血が怖いって事はないんだけど、あまりに毒々しい赤い色は好きじゃない。この花は血の色を連想させるほど鮮やかだ。
そのまま、またのんびりと植物を見て回る。そして俺は気付いた。
展示された植物の隙間や影に、不穏なものが見え隠れしている。それは実体を持たない邪気であり、不吉な場所や縁起の悪い所に溜まる、魔物の一種だった。人間には見えないが、俺にははっきり見える。
こんな場所に邪気が現れるなんて珍しい。本来ならありえない事だ。
少し座って休憩しようか?
ええ
休憩広場のベンチに座り、俺はふよふよと漂う邪気を、手を振って追い払っていた。
だがついそれに夢中になっていたらしい。桐原が不安そうに俺を見つめてくる。
あの……やっぱりわたしといてもつまらないよね? わたし、帰るから
ずっと無言で邪気の相手をしていた事を、会話をしてもつまらないんだと勘違いしてしまったらしい。俺は慌てて弁解する。
あっ! 違う! 桐原といるのがつまらないんじゃなくて……
でもずっと無言だったし、気も逸れてたみたいだから……
ただの人間で何も事情を知らない桐原に、邪気の事を説明するわけにもいかないし、どうやって引き止めたものか。とにかく桐原の気持ちを落ち着かせて話さないといけない。
俺が戸惑っていると、温室の天井が割れる音と誰かの悲鳴が轟いた。
なんだ?
桐原は怯えてぎゅっと胸の前で両手を合わせ、キョロキョロとしている。俺は桐原を庇うように立ち、周囲に視線を走らせた。
邪気の一匹が木に登ってそれを揺らしている。それが人間たちにも見えるらしい。化け物が、バケモノがという声が聞こえる。
おばけ?
桐原、ちょっとどこかに隠れてて! 俺見てくるから!
えっ? ダルミア君がそんな事する必要なんてないわ。係員の人とか大人の人に任せれば……
すぐ戻るから!
ダミルア君!
邪気の相手は人間にはできない。俺は桐原から離れて、ファンテに念を飛ばす。
異常事態だからすぐ来てくれと。
家で待機してるファンテがここまでくるのに、さほど時間は掛からないだろう。だがファンテの走るスピードにも限界がある。俺の方でなるべく状況を分析して時間をかせいでおかないといけない。
実体化し、いたずらに暴れる邪気は一匹じゃなかった。何十体もの邪気が、周囲をバタバタ走り回っている。ちょうど犬くらいの大きさだから、そんなに大きな被害は出ていない。人間は驚いて逃げ惑うくらいだ。
俺は控えめにヴァンパイアの魔法を使う。邪気に攻撃するための魔法だ。
出て行け!
風の刃を飛ばすと、邪気たちはひょいとそれを避ける。身軽な奴だ。
次の刃を放とうとした所で、俺は嫌な予感がしてその場を飛び退いた。
避けたのは正解だったらしい。頭上から真っ黒い塊が落ちてきて、床を窪ませた。その塊とはガーネットだった。
あ、外してしまいました
ガーネット! 俺を狙ったのか?
うん。そうですよ。君というヴァンパイアを野放しにしておくのもどうかと考えましてね。やはりやっつける事にしました
はぁ!? あっさりと言ってくれる! そう簡単に殺されてたまるか!
しかしいつも唐突だな、こいつは。嵐のように現れて、嵐のように去っていく。言っている事も唐突で端的で、真意を理解するのに時間を要する。
なぜ俺の命を狙う? 俺はお前の狩場を荒らしたりしてないだろう? 何の恨みがあるんだ
恨みというか、妬み? 君みたいにとても恵まれたヴァンパイアが疎ましく感じただけですよ
なにが恵まれてるだ! 故郷での俺の立場を知らないくせに。俺は今まで自分が幸せだったなんて感じた事もない。いつもいつも、爺さんとファンテの影に隠れて過ごしてきたんだ。これのどこが恵まれたヴァンパイアだと言うんだ!
俺はお前に殺される理由が分からない!
理由なんてないですよ。痛くしないので、黙ってやっつけられてくれますか?
嫌に決まってるだろ!
目障りですよ
ガーネットの支離滅裂な言い分など、まるで理解できない。前は生きろと言ったが、今日は死ねと言う。会うたびにコロコロと意見を変えてくるガーネットの思考は、俺には一生理解しがたいものだ。
じゃあそろそろ本気を出そうかと思います。構いませんか?
マズい! ガーネットの実力がどれほどのものかは分からないが、俺と対等というはずがない。魔法を使えない俺は圧倒的に不利だ。どうにかファンテがくるまで時間を稼がないと……。
待て! 話し合おう! 俺に否があったなら詫びる。だから……
話し合う事なんてないですよ。君はエルリグの……
……ダミルア君……?
俺の背後から桐原の声がした。するとガーネットはまた舌打ちして、黒いマントを身に巻きつけて飛び上がる。そして天井の穴から姿を消した。
……あれ? 今気付いたけど、ガーネットもヴァンパイアなんだよな? じゃあなぜ陽の光が平気なんだ? こんな燦々とした真っ昼間なのに。もしかして俺と同じ体質なのか? この中途半端で異質な体質……。
ダミルア君、どこ?
桐原! こっちにきちゃダメだ!
俺は桐原を危険に晒したくなく、俺の方へ向かってくる桐原を拒絶したんだが、彼女は慌てた様子で俺に走り寄ってきた。そして俺の様子を見てホッとした顔になる。俺の無事を喜んでくれたのか。
彼女の元へと向かった際、周囲の様子を探ったんだが、あれほどいた邪気は全て消えていた。
もしやあの邪気はガーネットが引き連れてきたものだったのか? 俺を燻り出すために。だとしたら、俺を殺したいという言葉も真実味が帯びてくる。一体どうしたものか。
ファンテは間に合わなかったが、またもや俺は桐原のおかげで助かった。桐原こそ俺の守り神なのかもしれない。