もう、私に近付かないで!!


 まだ、記憶から消えない。

 呆然と立ち尽くした、神社の境内。あいつの家の、すぐ近く。やや紫掛かった長髪を肩の辺りで縛って、ツインテールにした女の子。

 初めて、泣いた。


 あの時どうすれば良かったのか、未だに分からない。

 俺は変わった。それが、彼女にとっては受け入れ難い要素だったのか。それとも、知らない間に何かをしてしまったのか。

 後に残ったのは、左の頬にじんじんと残る平手打ちの痛み。殴られた事を認識した後で、堪らない後悔と罪悪感が襲って来る。

 群青色に染まる夕暮れ。涙を拭く余裕も無いまま、走り去って行った彼女。


 それが、俺のよく知るあいつ――……穂苅(ほかり)水希(みずき)を、全くの別人へと変えた瞬間だった。

 幼馴染とツンデレの方程式

 おい誰だ。高校に入ったらきっと、見た目で勘違いをするような幼い奴等は居なくなって、穏やかな生活が送れるようになる筈だ、って期待した奴。

 挙手しろ、挙手。

 俺は心の中で、自分自身に対して手を挙げた。

げえ、何だあいつ。髪やべえな……


 何がやべえんだ。人の悪口を言う前に、ボキャブラリーの貧困さをまずなんとかしろ。

ミュージシャン?


 あいつの頭の中では、髪色が珍しいとミュージシャンになるらしい。

バスケ部の救世主か……!!

 この天才に任せておけ!

 ……じゃない。

 晴れ渡る晴天の日。俺こと唐田(からだ)龍之介(りゅうのすけ)の、晴れやかな高校入学の日である。

 と言えば聞こえは良いが、晴れやかなのは空だけで、俺の心では色褪せたカミナリ雲がもうもうと外殻を覆っていた。

 ポケットに手を突っ込んだまま、猫背になって歩く。初めは極力人の目に触れないよう配慮しての事だったが、特に意味が無い事に気付いてからは惰性で続けている内に癖が付き、単に姿勢が悪いだけになってしまった。

 よし、考えるのはもうやめよう。気にしない事にするんだ。

 たったそれだけで、緊張感の代わりに眠気が、期待感の代わりに空虚感が押し寄せてくる。

しっかし、でっけえなあ……


 校舎の前まで来て改めて、やたら近代的な設備の整った建物の外観を見上げた。

 マトモな高校には入れないと言われていた俺が、一年前から狂ったように勉強した結果だ。そう考えると、少しだけ感慨深いものがあるだろうか。

 負け犬街道まっしぐらかと思いきや、意外と努力する時は努力する男らしいぞ、俺。

 心中で小さくガッツポーズをした。

あー、君? 君……新入生だね?
その髪の毛は一体……それより、こっちは……


 振り返って、声の主を見た。

 見たところ、この高校の教師だ。身長は百六十五くらいだろうか、俺より少し小さい。ベルトでは収まり切らない贅肉をどうにか茶色のスーツに収め、眼鏡を掛けている中年男。

 僅かに上から見下ろしているからか、禿げ散らかしているのが妙に気になった。

……ごほん!


 顔を見るや、咳払いを一つして、何事も無かったかのように校舎へと入って行く中年教師。

 ……ん?

 今の、俺に話し掛けたよな。

 この髪のインパクトからか周囲に人は居ないし、校舎まで続く道は広く、声を掛けるのでなければ隣を歩く必要性も見当たらない。

 背中から、ぽつりと呟きが聞こえて来た。

やー。近頃の若い子はキレ易くて困るね……

 人知れず、脳内ガッツポーズを引っ込める俺だった。

 どうやら、話もしない内からビビられたらしい。どうやらと言うべきか、やはりと言うべきか。

だから、これは地毛だっつーのに……

 誰にも聞かれる事のない呟きは、何処かに消え去った。

 俺だって、最初からこんな待遇だった訳じゃない。小さい頃は『レッド』と呼ばれ、クラスの人気者だったのに。

 第二次性徴期に入り、所謂反抗期と呼ばれる時期を過ぎた辺りから、それまでの周囲の状況は一変。始めから地毛だと知っていた筈の友人でさえ、俺の事を『グレてる』だの『ヤンキー』だのと呼ぶようになり、俺は孤立した。

 クラスの中心と言う程では無いにせよ、先行き明るかったそれまでの立ち位置は急落。まるでモラル違反の事件を起こした富豪のように、俺の立場は奈落へと真っ逆さまに落下したのである。

 高校に入ったら、何かが変わるかと思ったんだけども。……ま、今までと変わらない事に文句を言っても仕方が無いか。

 せめて、マナーくらいは守ろう。

 俺は入学式の会場を目指した。中ホールで行われるという……どうやら、学校の式事は体育館で行われるものだという俺の認識は、ここでは通用しないらしい。

 まるで大学のようだ。……そうだろうか? 勿論まだ通うのは先だけれど、イメージとしては。

 進学校だからか、ガラの悪そうな奴はそんなに居ない。それでも、廊下の隅を見れば変な奴も――……皆、俺を一度は見ていく。

 ……やっぱ、すげえ顔されるもんだな。

 別に先生脅して入学した訳でもあるまいに、生徒達の視線はひどく冷たいものだった。

 黒染めしようかな……。いや、特異現象とはいえ、親から授かったこの色を変えると言うのも……。

 まあ、そんな事はいい。それよりも問題な事がある。

 中ホールらしき建物が見当たらない、という件について。

えっと……

 周囲に地図はなく、予め配られていた手元のプリントに記されている、小さな図に従って進んでいるのだが。

 おかしいな。地図通りに進んでいる筈なんだが……地図と言っても大きな長方形の建物が幾つか並んでいるだけの状況では、一体どの建物に中ホールとやらがあるのか、皆目検討がつかない。

 ……まいったな。早めに来たつもりだったが、意外と時間が無くなってきた。

 よく見れば、周囲の生徒が着ているブレザーは、俺とは若干色が違う。……この学校はブレザーの帯の色で生徒の学年を判別していると、聞いた事がある。

 いや、待てよ。中ホールは確か体育館や職員室なんかの側にあって、生徒の教室からは離れているとも聞いたような。

 つまり……俺は中ホールに向かっているつもりで、中ホールから遠ざかっているのだろうか。

 瞬間、チャイムの音が鳴った。

やべっ……始まっちまう……!!


『遠ざかっているのだろうか』なんて、悠長な事を考えている場合ではなくなってきた。五分前だから、恐らくこれから入学式が開式するのだろう。

 まずいな……。誰か、先生を発見したい所だが。初日から遅刻は、やはりまずい……。

あれっ? 龍之介?


 誰だ、俺を呼ぶのは。

 聞き覚えのある声がして振り返ると、俺はそこに居た人物に目を丸くした。

あれ、杏月おばさ――――

ゲフゥッ!?

 そのまま、鳩尾辺りに豪快なストレートを喰らって、俺は地面に突っ伏した。

迂闊に人の背後に立っちゃあいけないぜっ

 背後に立ったのは、どう考えても俺ではない。

 穂苅(ほかり)杏月(あんず)。俺のよく知るおばさんで、『おばさん』と呼ばれる事を最も嫌う人だ。つい反射的におばさん呼ばわりをしてしまった。

 だって、俺の世代から見れば。立場的にも、幼馴染のおばさんなんだから仕方が無い。

いけない……鳩尾を打ってるわ!! 保健室へ連れて行かないと……!!

殴ったのはオメーだよ!!

 しかも、チャイムが鳴った後なので廊下には誰も居ない。そういえば、この人の職業を俺は聞いた事が無かった。

 年齢を考えると、信じられない程に若々しい外見。同世代だと言われても信じてしまいそうな愛くるしい瞳。……だが実際の年齢は、一回り以上離れていると言うのだから驚きだ。

 しかし、何で杏月さんがこんな所に……親代わりか何かか?

 杏月おばさんは、白衣を着ている。

杏月おばさ……杏月さんが、保健室の先生なんすか?


 俺を殴った事など既に忘れましたと言わんばかりの上目遣いで、杏月おばさ……杏月さんは言う。

あれ、言ってなかった? 私、今は先生やってるんだあ。
龍ちゃんと一緒に学園生活、ちょっとドキドキするね……

ハラハラはするかもしれませんけど、ドキドキはしないっすね

あら、反抗期? ……龍之介も成長したのね

キャラを安定させてくれキャラを!!

 ロリかババアかどっちかにしろと言いたくなったが、どうにか堪えた。

 いかん、こんな事をしている場合ではない。立ち上がり、周囲を見回す……既に、廊下を歩いている生徒すら居ない。

杏月さん、丁度良かった。入学式なんですけど……


 その時、本令を告げるチャイムが鳴った。

 ……駄目だ、完全に手遅れだ。

 目を丸くして、杏月さんが俺に言う。

そうよ、もうすぐ入学式でしょ?
何でこんな所で泡吹いて倒れてたの?

あんたが鳩尾殴ったせいだよ!!

 この人は本当にもう……。

 気を取り直して、さっさと入学式の場所を聞いてしまおう。

杏月さん、中ホールってどこだか知りませんか? 広すぎて、迷ってて……

え? 私、今日からだよ? 場所なんて知ってるわけ無いじゃん


 ちょっと得意気に話す所が、更に俺の不快感を煽った。……このロリババア、そんなんだから未だに独身なんだよ。

……っておいおい、ちょっと待てよ。じゃあ、杏月さんは今、何をしてるんだ?

何も言われてないし、特にやる事も無いから? 建物の場所を覚えようかなーと


 俺は思わず怪訝な顔をして、杏月さんを見てしまった。

おかしくねえ? ……今日からなんだろ? 入学式に出ないって事無いだろ

え、でも私、何も言われてないよ?


 どうしよう。俺が間違っているのだろうか。……しかし、杏月おばさ……杏月さんって、ちょっと何処か抜けてる所があるからな。誰に似たのか知らないが。

当たり前過ぎて、言われなかっただけじゃね……?

ほら、入学式は中ホールだって、入口前にも書いてあっただろ?
教師も生徒も皆、うろうろしてたぜ


 え、と杏月さんは目を丸くして。

…………えっ


 と声に出すことで、今更過ぎる気付きを得たらしい。

 俺も俺で、よく考えて見れば場所が分からないなら、他の生徒に付いて行けば良かったのだ。それもまた、今更過ぎる気付きではあったが。

 杏月さんは見る見るうちに顔を青くすると、がたがたと震え出した。

えっやば……どうしよ、出鼻でいきなりミスとか笑えない……

中ホールを探そう、中ホールを!! 杏月さんなら教員紹介の前に到着すればまだ間に合う!!


 俺はホールの端に立っている人間ではなく、席に座る人間なので全てが手遅れだが!

 杏月さんは刹那的な動きで白衣を脱ぎ、くりくりとした愛らしい瞳を瞬間的に肉食獣のそれに変え、ハイヒールを脱いだ。

 ……保健室の教員がハイヒールってのも。普通なのか……? どうなんだろう。

 揃えて左手に持つと、周囲の様子を窺う。

時間が無いわ、龍太朗。手伝ってくれるわね

アンタは一体、誰に協力を求めてるんだ……


 何を手伝うのかも正直よく分からなかったが、杏月さんは走り出した。俺も彼女の後ろを付いて行く。

 手伝うのは良いが、俺の失敗も帳消しにしてくれるんだろうな。

 走っていると、清掃員の人が見えた。高校に清掃員……!? どんだけリッチな学校なんだよ。掃除くらい生徒にやらせろよ。

すいません、中ホールって何処だか分かりませんか?

 あざとい困り顔だった。

 杏月さんの呼び掛けに、指をさして指示する清掃員。その様子を眺めながら、ぼんやりと――あー、これで入学早々孤立確定かなあ――などと思う。

 別に、今に始まった事ではないけどさ。

裏から入るわよ。私に付いて来て


 中ホールへと辿り着くと、映画館でよく見るような防音性の扉がある。杏月さんはそれを無視して、隣の準備室らしき部屋へと入って行く。

 扉を開けると、僅かに中ホールで行われている行事の音が聞こえて来た。……まだ、校歌斉唱か。事前に受け取ったプログラムでは、教員紹介はもう少し先のようだから、杏月さんは間に合ったのだろう。

 準備室には扉が二つある。杏月さんは準備室をコソコソと抜けて……おそらく、位置的には中ホールへ続くと思われる扉の前に立った。

 ドアノブを握ると、杏月さんは俺に振り返る。

龍之介。……悪いようにはしないから、何があっても、私を信用してね

裏切る五分前の香りがするんだが……

 ま、俺は元々のイメージからして遅刻しそうな雰囲気だからな。『やはりお前か』程度の顔をされるに違いない。……仮に中学時代のあいつだったら、それはもう大騒ぎになるんだろうが。

 中ホールの、扉を開いた。

新入生代表、穂苅水希さん

はい


 そう、若しも遅刻して来たのが俺ではなく、こいつの方だったら。

 白いテーブルに、白い椅子。椅子は固定されているようで、やはり中学の時とは建物の質がかなり違う。水希は無数の学生達の中から立ち上がると、長髪を揺らめかせて教壇に向かって歩いて行く。

 ……教壇? ステージと言った方が自然なように見える。

きゃー、水希可愛い……!!


 珍しく、杏月さんが年齢相応な事を口にしていた。

 まあ確かに、穂苅水希は俺の目から見ても、美人だ。周囲からひとつ抜きん出ていると言ってもいい。

 猫のような釣り目に、すらりと伸びた手足。蒼っぽい、艶やかな長髪。清楚な雰囲気。大人びた雰囲気と無邪気な可愛らしさを併せ持ったような顔。

 今日初めて着たはずの高校の制服でさえ、しっかりと着こなしている。

 生徒を前に喋っている水希と、目が合った。

…………

 俺を一瞥するが、何事も無かったかのように視線を戻した。

 俺もまた、水希を見たからと言って、何かの反応をする事もない。

 それが、俺達の関係だから。

穂苅先生。隣の彼は……?

 近くに居たスポーツマンらしい雰囲気のある教師が、杏月さんに耳打ちをしていた。

唐田君です。入学式をさぼろうとしていたので、連れて来ました


 聞こえてんぞババア。やはり俺を連れて来たのは自分の遅刻の口実にする為か。


 …………やれやれだ。

1 = 狼は薔薇の夢をみる

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