真っ赤な夕焼けが廊下を照らし、
少女の影が真横に伸びた。
影の方を見ないように
ずっと真っ直ぐ前だけ見ながら
秘密のおまじないを唱える。
真っ赤な夕焼けが廊下を照らし、
少女の影が真横に伸びた。
影の方を見ないように
ずっと真っ直ぐ前だけ見ながら
秘密のおまじないを唱える。
影法師さん影法師さん、私の隣にいるんでしょ? お返事聞かせて、お願いよ
「夕陽が燃える4時44分に、自分の影に話しかけると
影が返事をしてくれるんだって……」
他愛もない噂
根も葉もない噂
それでも頭の片隅に芽生えた好奇心は、
条件が揃うと簡単に、
少女の背を押してしまった。
誰も居ない校舎に、少女の声だけが響く。
誰かに見られたらどうしよう
先生に怒られたらどうしよう
緊張の冷や汗は、やがて滑稽さに対する呆れに変わり、溜息交じりに首を振る。
馬鹿な噂に騙されたのね……
影が返事をする筈ないのに
もう、帰ろう…
もう帰っちゃうの?
唇は開いた形のまま固まって、喉の奥が乾いていく。
隣から聞こえた声は、
少女の声と全く同じものだった。
あなたが私を呼んだから、
こうしてお返事してるのに
早速私を裏切るのね。
さすがは毎日私を
踏んづけているだけあるわ!
声は生々しく耳元で響いて、
少女の首筋に冷たい吐息を吹きかける。
楽しげで、憎々しげで、誘うようなその声に耳を傾けないようにしながら、噂の全容を必死に思い出す。
「影が返事をしてくれたなら、
絶対そっちを見たらダメ!
目が合った瞬間に、影は呼び出した子のことを、
あの世に引きずり込むんだって」
ひどい噂ね、私はそんな怖いことしないわ。
毎日あなたに踏まれる惨めさも、今日だけは忘れてあげる。
だって、やっとあなたとお喋りできるんだもの!
「影は何でも知っているから、自分の秘密も頭の中も、全部筒抜けになってしまうけど、
夕陽が沈んで暗くなれば、いつもの影に戻るのよ。
そうすればもう大丈夫。
普通に帰ればいいだけよ」
まるでエスパーみたいでしょ?
私はいつもあなたの下で、
惨めに、可哀想に、横たわりながら
あなたがしてること全部真似して
全部覚えているんだから、
このくらい当然よ
あなたが知らないことだって
私は知ってるんだから
何でも訊いてくれるなら
何でも答えてあげちゃうわ!
う、
嘘
嘘吐き……
唇も喉もカラカラで、舌の根まで乾き切っていたのに、
少女は橙色に暮れていく廊下で、そう呟いていた。
ふっ
ふふふふ
嘘吐き?
どうして?
私は、
あなたなのに?
あなた嘘吐きなのかしら?
ち、違うもん
私は……だって……
あなた、あなたの存在自体が、
嘘じゃない?
影は、口をきいたりしないの
全部夢か幻なのよ
確かめてごらんなさいな
私を見て
私があなたを見ているように
そうすれば本当に、
口をきいているかいないか分かるわ。
見て
見てよ。
ね?
だ、だ、騙されない。
あ、あ、あ、あなたの方を見たら
私、私、死んじゃうんでしょ?
絶対に見ないわ
そんな馬鹿な真似しない
うふふ
うふふふふふふふふふふふふふふ
あなた、変よ!
影が口をきくのは嘘なんて言っておきながら
私の方を見たら死ぬ、なんて!
下らない噂を頭っから信じてるのに、
私の声は信じないのね!
聞こえてるのに!
聞こえてるのにね!!
夢
悪い夢
少女は固く両手の拳を握りしめ、
肩を張りながら真っ直ぐ前だけを見つめている。
血走った目。荒い呼吸。
影は少女の真横で軽快に踊る。
きっと今までも、彼女が見てない間は、そうして自由にしていたのだろう。
気まぐれに彼女の首筋や手元に触れて、
「見て」
と囁いた。
あれから何分? 何時間?
早く夜になって!!
お願い!!
目玉を動かしてチラリと窓を見ると、太陽が金色の光を放ちながらゆっくりと地平線に沈んでいくのが見えた。
間もなく夜が訪れる。
怖いんでしょう?
私を受け入れてくれさえすれば
ずっと友達でいてあげるのに。
どんな事があっても、見放したりしない。
本物の親友になれるのよ!
少女はギュッと目を瞑った。
残り時間をこうして耐えれば、影は手出しできない筈だ。
神様…!
祈るような気持ちで、ひたすら耐えた。
「見て」「見てよ」「怖いの?」「大丈夫」「私は何もしないわ」「嘘吐きはあなたよ」「誤魔化さないで」「どうして泣いてるの?」「…ねぇ」「ねぇ、私を見て」「見て!」「見てよ!!」「…お願いだから…」
影の声は徐々に焦りを帯び始め、やがて悲鳴に変わり、啜り泣きが交じったかと思うと……やがて何も聞こえなくなった。
それでも少女は暫く、そのまま硬直して動かなかった。
頭の中で秒数を数える。
20……60……180……。
それでも何も聞こえない。
少女は目を開けた。
廊下は真っ暗で、夕陽の光はどこにもない。
窓の外は暗く、何も見えない。
ゆっくりと、何度も呼吸をする。
心を落ち着かせて……
勇気を振り絞り……
隣を見た。
影はどこにも無い。
闇の中に溶け込んで、見えなくなっていた。
あ、ああ……私……
助かったの?
安堵のあまり、その場に座り込む。
膝が震えている。いや、全身が。
早く帰ろう。
すっかり遅くなってしまった。
お母さんが心配してる。
さっきのことは全部夢で、
私はずっとここで倒れていたのだろう。
きっとそうだ。
だって、影が話す筈ないんだから。
嘘吐き
嘘吐き
嘘吐き!!
少女が顔を上げると、廊下の先の暗闇で、
一層濃い闇が、人の形をして立っていた。
それは少女の姿をしていて、
唇を歪めて、にっこり笑った。
見てない
見てないのに……
どうして
見たの、あなたは
沈む夕陽を目で追うために
窓を見たとき
窓に映り込んだあなたの顔の隣に、
影も重なっていたのよ
あなたは私を見ちゃったの。
……見てくれたの!
可哀想だから……
それからも少し遊んであげたけど……
これでようやく二人きり
先生一人、警備員一人、
誰もあなたと会わなかった意味に
早く気づくべきだったのよ
影が、
一歩ずつ、
少女に近づいてくる。
少女の姿も闇に呑まれて
一つの影法師のようだった。
怖がらないで、
ここはあの世なんかじゃないから。
ここは裏側。
私の住処。
これからはずっと一緒よ
誰もいないけど
誰とも会えないけど
ずーーーーーっと
私がいてあげるから!
夜のまま永遠に閉じた世界で、
二つの影法師が重なり合う。
少女は目を閉じた。
目を開けた。
どちらも全く変わらない暗闇だけが広がっていた。
-終わり-