15│先輩の過去

雨音 光

まずは、ごめん

リビングに通されて、テレビの前に置いてある二人がけのソファに座るように促された。


先輩は、お茶を持ってきてくれたあと、左隣にある一人がけのソファに座る。


そして、座るや否や、頭を下げたのだった。

川越 晴華

先輩、そんな、大丈夫ですよ

雨音 光

いや、意地張ってたのは俺だし、川越さんからしたら意味わかんないことだらけだったと思うし……

ゆっくり顔をあげて、先輩は小さくうなだれた。

川越 晴華

舞のことでわかったんですけど、人が怒る理由って、他の人には想像もつかないようなことが多いのかもしれません。

だからこそ、その部分がわかれば、その人を理解できるようになるんじゃないかな、とも思って

雨音 光

……川越さんは大人だなあ。

やっぱり、俺は間違ってなかった

猫見を分ける相手を、ということだろう。

素直な言葉が、こそばゆい。

雨音 光

このこと、こっちに引っ越してきてから誰にも話したことはない。

これからも、話すつもりもない

先輩が、真剣な眼差しを私に向ける。

自然と、背筋が伸びる。

雨音 光

俺の秘密、誰にも言わないで

川越 晴華

もちろん

雨音 光

うん。信じるよ

小さく微笑んで、先輩は話を始めた。

雨音 光

猫見の能力って、雨音家で代々受け継がれてきたものなんだ。

今、その能力の正当な引き継ぎをされているのが俺。


引き継がれた人は、代々この能力を人助けに役立てるって決まりがある。

拘束力はないんだけどさ、俺はその考えに賛同しているから、人助けをしている

雨音 光

……母も、同じ考えを持っていた。

この能力は、母から引き継いだんだ

雨音 光

母の前は父が持っていた。

でも、父は若いころに事故で亡くなってね。
その後、母に引き継がれた。

不思議だよね、猫見の能力は決して途絶えないようにできてるんだよ

雨音 光

突然猫が見えるようになった母親のことを、俺は鮮明に覚えている。

何もないはずの場所を見ながら、真っ青になって、どうしてって言ってね……直後、父が事故にあったという知らせがきたんだ。

なかなかショッキングだったよ

雨音 光

父は、熱心な人だった。

猫見をうまく使って、たくさんの人を助けていた。


母は、その遺志を受け継いだ。

でも、無理しすぎちゃってね……去年、倒れたんだよ

先輩が、小さく深呼吸をした。

目が、少しだけ赤い。

川越 晴華

先輩、ごめんなさい。

辛いなら、もういいですよ

いや、と先輩は笑った。

無理に笑顔を浮かべているのは、すぐにわかった。

膝に置いている手に視線を固定して、話を続ける。

雨音 光

話すって決めたんだ、俺こそごめん……

雨音 光

そう、それで、去年倒れて。

それまで無理してたのは知っていたし、止めてもいたんだけど、倒れるまで結局俺は何もできなかった。

すごく後悔して、無理を言って母に猫見を完全に引き渡してもらった。

それが、去年の暮れごろかな

雨音 光

母は大分元気になったんだけど、もといた町にいると、もう気になってしかたがないみたいで。

よく行くお店のあの猫は元気かなあとか、隣の家の猫のけんかは無くなったかなとか。

猫見が無くなったあとも、結局そんな調子で

雨音 光

このままじゃまた倒れちゃうねって話になって、四月に、ここに移ったんだ。

親戚が海外に出てて、この家を貸してくれてね。

二人暮らしには少し大きい家だけど、たまに姉達も帰ってくるし、快適に暮らしてる。


でもまだ、母は全快していない。

今も、寝室で休んでるんだ

先輩の手に注がれていた視線が、ふっと浮かんで、私を捉えた。


私も、その視線から目をそらすことはしなかった。




もう、先輩がどうしてあんなに心配してくれたのか、わかる。

雨音 光

話せばあっという間だね。

これが、俺がここに引っ越してきた理由。
そして、俺が川越さんを怒鳴っちゃった理由。


……川越さんが怪我をしたって聞いて、とっさに……父のことも、母のことも

川越 晴華

先輩

先輩の声と手が、震えていた。


私は気がつくと、震える先輩の手に、自分の手を伸ばしていた。

大きな手に、そっと自分の手を重ねる。

川越 晴華

もう、大丈夫ですよ

もう話さなくていいですよ、の意味だった、のに。


私の伸ばした手を、先輩が心配そうに見つめた。

先輩は、私の手のことだと思ったみたいだ。

雨音 光

……本当に、大丈夫?

重なっている、手。触れている、手。


先輩は手をくるんと返して、私の手を優しく握った。




体温が急上昇する。




今さらになって、心臓が飛び出てきそうなほど高鳴っている。

雨音 光

腫れてはいないみたいだけど。

病院、行った?

川越 晴華

あ、えっと、大丈夫です痛くないです病院は今後痛かったらすぐに行きます

早口の、変な返事。


今、こっちを見ないでほしい。
きっとリンゴみたいに赤くなってる。


そう思った瞬間、先輩は視線をあげる。

そしてーー驚いたように目をまるくして、あわてて私の手を離した。


私もあわてて手を引っ込める。


ああ、今の反応、手が触れていたことを意識しすぎているのがばればれだと反省するも、もう遅い。

雨音 光

ご、ごめん

先輩の目が泳いでいる。

一方私は、先輩からなぜか目をそらせないでいる。

川越 晴華

な、何がでしょう!

って私はなんて質問を! 


クロニャ! レイン様! 


助けて今どこにいるのあの二人!

雨音 光

いや……なんでも

目をそらした先輩の頬も、赤くなっている。


いつもひょうひょうとしている先輩からは想像できない表情に、ますます私も赤くなる。

川越 晴華

は、話してくださってありがとうございました

無理矢理話を戻す。

私の鼓動も、少しずつ、落ち着いてくる。

雨音 光

いや、聞いてくれてありがとう。

暗い話だったと思うけど

川越 晴華

そんな。

先輩は、ただでさえ引っ越してきたばかりで大変なのに、いろんなことを抱えていて……あの日、屋上に行ってよかった。

私、先輩が心配だったんです。

いつも一人ぼっちな気がしてて

先輩の表情も、いつもの表情に戻っていた。

雨音 光

今は、一人じゃないね

先輩は、そう言いながら頬を緩める。

雨音 光

ありがとう

そんな優しい笑顔、ずるい。

川越 晴華

いえ、そんな

私こそ、なのに。


私こそ……先輩のおかげで、一人じゃなくなったのに。

言おうか?




一瞬、心の中でそんな感情が生まれる。

今、この場所で、私も?




でも、その感情はすぐに消える。


私は……言えない。

まだ、そんな勇気がでない。




先輩は、私のことを勇気があるって言ったけれど、私のは偽物。

偽物の勇気。


アドバイスは、簡単にできる。

一人で抱え込まないで。誰かに言ってみて、と。




でも、行動に起こせる、先輩の方が、私より何倍も勇気がある。




私は、殻に引きこもったまま、何にもないかのように、笑顔を浮かべているんだ。


こんな自分に、嫌気がさす。

黙りこくっている私に、先輩はあのね、と話を続ける。

雨音 光

母に川越さんのことを話したときに、母はすごく感動してた。


一人で猫見を持っているのは限界があるって、母も考えていたみたい。


そうやって、誰か一緒に見てくれる人がいることは、素晴らしいことだってね。

本当に、川越さんには感謝してる。
引っ越してよかったと思えるぐらい。


毎日が楽しいよ

だからね、と先輩は真剣な表情になる。

雨音 光

だから、無理はしないで

私は、力強くうなずく。

川越 晴華

もう、無茶しません!

雨音 光

うん。約束

先輩が、小指をつきだしてきた。

子どもみたいだと思って思わずふきだしながら、私も小指を出して、指切り。


上下に二回、重ねた指を振る。




指が離れてーー先輩は、私を見つめてーー



雨音 光

川越さん

心臓が跳ねる。




変な、空気。




もしかしたら、放っておけば、私が何も言わなければ、私達の距離が、変わってしまうかもしれない。




そんな予感がしてーー私はとっさに、口を開いていた。

川越 晴華

先輩、あの二人、どこに行ったんですかね

雨音 光

えっ? ああ、レインとクロニャ?

話をそらして、私は逃げた。




これ以上は、近づけない。

近づくと、先輩は知ってしまう。




私のこと。私の過去のことを。

それが怖くて、私は逃げた。

pagetop