相変わらず真っ白な部屋だ

 と女は思った。


 スライド式のドアを、できるだけ静かに閉める。そのドアは、人が一人入れるほどしか開かないように設計されていた。

 

 なるべく入ってくるな、入るなら、静かに。ドアがそう言っているようで、彼女はこの設計がどうしても好きになれなかった。




 その部屋には何もなかった。窓も、時計も、壁に飾られるような絵もない。

 この部屋にグランドピアノを六つは置ける、と彼が例えたことがあったな、と女は時々思い出す。それだけの広さがある部屋だった。


 部屋の真ん中に、少女が一人座っていた。椅子に座るのではなく、地べたに座り込んでいる。制服を着た彼女は、膝を抱え、顎を膝に乗っけている。

 表情は、女からは見えなかった。黒く長い髪が、白い床につきそうだ。

どうやったらあんなにつややかな髪の毛になるのだろう。


 女はため息をつきそうになり、慌てて息を飲んだ。音をたてたら、彼に怒られる。女は、少女の目の前に座る男をちらりと見た。

 男は、食い入るように少女の顔を見つめていた。大丈夫、邪魔にはならなかったようだ。


 女はドアのすぐそばに座った。少女と同じような格好になったが、それは偶然だった。壁にもたれ、二人の様子を観察する。これは、女にとっての日常行事だった。

唇が綺麗だ。どうしてこんなに赤いんだろう。なぁ、おまえ

 部屋の隅に置物のように座っていた女は、いきなり呼ばれて飛び上がりそうになった。

 私は彼の意識の外にあると思っていたが、なんだ、気がつかれていたのか。

……若いからじゃないかしら

 女は答えた。

 少女はまだ十八だから、血行のよい唇の色をしているはずだ。男は女の方を一度も見ずに、そうか、と呟いた。

美しいよ、この赤色は

 男は持っていたスケッチブックに、彼女の唇を模写し始めた。

 少女は相変わらず黙ったまま、人形のように男を見つめていた。男は彼女の唇を描いてはスケッチブックのページをめくり、ページをめくっては唇を描き、を繰り返した。


 三枚目のページを破いたところで、彼ははっと顔をあげた。その顔はまるで、世界が終ったような顔をしていた。

ち、違うんだ。違うんだ違うんだ違うんだ

 スケッチブックを放り投げ、彼は何度も首を振った。


 嫌な予感がする、と女は思った。なぜだかこの先は見たくない……でも、動かないで見ていよう。

 ここで少しでも動いて彼に気がつかれたら、彼はなぜ今気が散るようなことをして僕を邪魔したんだとどなり散らすだろう。

 そんな男の姿を、女は容易に想像できた。過去に一度だけ、物音をたててどなられたことがあったが、心底怖かった。

 もうあんな思いはしたくない。それなので彼女は、だまって二人の様子を見続けた。

違うんだよ、信じてくれ

 男は少女の細い肩を力強く掴んだ。

 女はその様子を見て、少女が思わず顔をゆがめていないかしらと心の中で思った。

 しかし、少女は少しも表情を変えることはなかった。

さっき僕は君の唇の色が美しいと言ったけれど、決して、僕は君の唇の色だけが美しいと言ったんじゃないんだよ。

美しい君がいるのは大前提だ。君はこの世の中のたった一つの、自然が生み出した芸術だよ。

僕は確信している、君ほど美しい人はこの世にいない。

本当だよ。僕はいつもそう思っている

 男は目に涙を浮かべながら、両手で少女の顔を包み込んだ。

 少女は、少しだけ首をかしげた。その動作を見て、男はとうとう泣きだした。

あぁ! 美しい、こんなにも美しい人が僕の傍にいてくれて、僕の被写体となってくれている……嬉しいよ。


それなのに、本当に、本当に申し訳ない。少しでも誤解を生むような表現は避けるべきだった。

美しい君の美しい唇の美しい赤色は僕には表現できないと、そう言うべきだったんだ。


あぁ、あぁ……

 男は優しく少女の頭の後ろに手をやると、そっと彼女を押し倒した。

 少女はゆっくりと足をのばし、男の腰に両手をやった。男は愛おしそうな表情で、少女を見つめて呟いた。

美しい

 少女は男の首の後ろにまで手を回すと、

ねぇ

 と男に話しかけた。女にとって、今日初めて聞く少女の声だったが、相変わらず鈴を転がしたような可愛らしい声だった。

 喉の風邪にでもかかって、嗄れ声になってしまえばいいのに、と女は何度も思ったことがある。

 しかし、少女は風邪などひいたことが無かった。当たり前だ。

 彼女の健康を維持するために、男は最高の環境をこの家に整えていた。少女は、なんでも男から与えられていた。

 少女は男に愛されていると、女は何度も思った。

 最高級の物を、彼女の健康と美のために。

 そんな男の言葉を、女は何度聞いただろう。そのたびに、少女を羨ましく思うのだった。


 私もそんな風に想われたい。女はいつだって、少女を妬んできたのだ。

私の唇に、あなたの唇をつけて

 少女は男に言った。女の中に怒りの感情が一瞬にして沸き上がった。


 何を、この小娘が。


 女は思わず叫び出しそうになったが、唇を噛んでそれを我慢した。だめだ、今大声を出してみろ、彼が怒ってしまうかもしれない。



 我慢だ。我慢だ。女は心の中で何度も唱えた。膝を抱きかかえていた指先に力が入り、爪が足に食い込んだ。


 男は少女の小さな頭を撫でると、何を言っているんだ、と笑いながら呟いた。

 その言葉に、少女は目を見開いた。女の怒りは一瞬にして静まった。

確かに

 男は続けた。

唇は質感を認識しやすいから、芸術家は時として唇でその対象の質感を確かめることがある。

僕だってそうだ。

木に唇をつけたことがあるし、硝子にもある。でもね

 男の親指が、少女の唇を撫でた。

僕はこれだけにしておくよ。

さすがに僕の唇で、君の唇の質感を確かめてはいけないだろう。

だって、キスになってしまう

 ふふ、と男は微笑むと、少女を抱き寄せ、上半身を起させた。

僕には妻がいるからね

 男の言葉に、女は泣き出しそうになった。

 彼に駆け寄ってキスをしたい衝動に駆られたが、またも自分を制した。彼はいつでも私にキスをしてくれる。

 もし今立ちあがって怒らせてしまったらと考えると、容易には動くことができなかった。



 さぁて、と男は立ち上がった。少女の手を取り、少女も立たせる。

今日のスケッチは終わり。

君を完璧に模写できる日に、少し近づいたよ。

今日はもう部屋に戻っていい。

僕も戻るから、おまえも部屋に戻っていなさい

……はい

 女の返事に、彼はうん、と笑顔で頷くと、少女を置き去りにしたままドアの方へ、つまり女の方へ歩いて来た。

ねぇ

 男が部屋を出る直前、女は男を捕まえた。

ん?

 男は首をかしげ、笑顔を返す。

後で……キスして

 女は勇気を出してそう言った。男はきょとんとした顔をすると、あはは、と笑った。

なっ、何

 女の言葉を塞ぐように、男は女の唇に軽く自分の唇を重ねた。女の体温が急上昇する。

何を言い出すかと思えば、面白いな君は

 部屋で待ってる、と男は言い、白い部屋を出て行った。

 女は、火照った頬に両手を当てた。嬉しさのあまり、叫び出してしまいそうだった。あぁ、愛おしい人!


 そんな女の元へ、少女がつかつかと歩み寄った。端正な顔に表情は無く、人形のような目は、女を捕えていた。

 女は少女の視線に気がつき、無言で少女を睨みつける。少女はにやり、と笑った。

いつか彼にキスしてもらうわ

無理よ、彼は一線を超えない

超えるかもしれない。私を崇拝してるのよ

信仰している対象にキスをしたい、なんて考える信仰者がいるものかしらね

 少女は言葉を詰まらせ、一度舌打ちをした。

 この姿は、男の知らない少女の姿だった。少女は、男の前では大人しい猫のようにしているが、女の前だと違った。

 敵意をむき出しにし、睨みつけるその目はいつも

この恋敵が

と言っているようだった。

今に見てなさいよ

 少女は歯を食いしばりながら言った。女は反論しようと口を開けたが、少女はすぐに部屋を出て行ってしまった。

 待ちなさいよ、と言いかけて、女は止めた。今日は勝ちだ、完全なる勝利だ。


 少女の前で、彼とのキスシーンを見せつけることができたのだ。女はすがすがしい気分だった。


 画家の男と、その妻、そして被写体の女が住むその家は、いつだって歪んだ三角形に支配されていた。

はやく彼女の絵が描ければいいのに

 その日が来るまで、この三角関係は終わりそうにもないな、と女は思い、ため息をついた。

 しかし、それでも幸せな気分だった。部屋に戻ると、少女はいない。彼がきっと寝る準備をしているのだ。


 もう一度キスをせがもう。そのままベッドに押し倒されたりしないかしら。


 そんな妄想とともに、女は白い部屋を後にした。












ある白い部屋の三角

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