警察署の端でパソコンを持った男が一人。何人かの警察官が彼をちらと見やるが、誰も彼を気にすることは無かった。何故なら、その男は警察署に居てもなんらおかしくない存在であったからだ。駿河音耶警部は署内でもそれなりに有名であった。彼の手腕が主な要因だが、婦警が彼のルックスに興味を持ったからというのも外せない理由である。
 ――しかし、誰もが駿河音耶警部だと思った男は音耶その人ではない。小さく笑いを噛み殺し、画面上の少女と会話する男――駿河恵司は携帯に表示されたメールの文面に満足そうに頷いた。

駿河恵司

いいか椎さん、準備完了だ。埴谷のパソコンは音耶に頼んでもう初期化済み……。俺達はギリギリまで様子を伺うぞ

箱入椎

え、ええ? でも私、色々覚えてるよ?

駿河恵司

言ったろ、初期化されんのは埴谷の手元のパソコンだけだ。俺の椎さんは初期化されない

箱入椎

俺の椎さん……私ギコ君のだよ!

 恵司の言葉にむくれる表情を作る椎。恵司はこんな時でもイチャイチャしやがって、と後で埴谷を一発殴ろうかと考えながら言葉を返す。

駿河恵司

……語弊だすまない。俺のパソコンの椎さんは無事だ

箱入椎

あ、え、えと……ごめんね話の腰折って

駿河恵司

別に構わないさ。埴谷のパソコンは遠隔操作出来る状態にしてある。本当はあんまり良くないウィルスを仕込んだメールを送って音耶に開いてもらった。だから埴谷のパソコンは弄り放題なわけだ

箱入椎

うう……悪いことしてるような……

駿河恵司

大丈夫だ、この程度はどうということじゃない。んで、こっちでこっそりデータ消し飛ばしといた。ついでにマイクとカメラ動かして向こうの様子も確認できる。椎さん、端に映していいか?

箱入椎

あ、うん

 椎の返事を聞いた上で、恵司はキーボードを打ち始める。立ったままなので片手で打っているが、手慣れたものですらすらと文字列を打ち込んでいく。プログラムではあるものの結局記憶は椎とほとんど遜色のない椎には何をしているかはさっぱりだが、しばらくすると画面には小さくウィンドウが現れる。そこに映っているのは埴谷と音耶だ。

駿河恵司

よし、完了。いいか椎さん、今から大作戦が始まるわけだが、見てて辛いことがあれば目を逸らしてくれ。愛していた彼の見たくなかった一面が見えるかもしれない

 脅すような、警告するような恵司の言葉に、画面の中の椎はふるふると首を振る。

箱入椎

大丈夫。ずっと見てるよ。ギコ君のことだもん、全部受け止める

駿河恵司

……埴谷よりよっぽど出来た彼女だな。勿体ねーや

 恵司は優しく笑って、画面の動きに集中する。「なんてな」、と小さく零し、椎にも音耶にも教えていない、本当の目的を果たすために。

駿河音耶

とりあえず……これでよし、と

 埴谷の目を盗み、メールを開くだけなどいともたやすい。彼からすれば椎は彼女でありパソコンではないのだ。音耶はパソコンの画面の椎が彼女の笑顔の写真に変わったのを見てほっと胸を撫で下ろす。

埴谷義己

どうかしたのか、駿河

駿河音耶

ああいえ……その、椎さんの様子がおかしいようでして

 今の椎――ただのパソコンに目を向けさせるため少しわざとらしいくらいの表情で埴谷にそう言う。埴谷は慌ててパソコンを見ると、不安そうに「椎」と呼びかけた。

起きて、ギコ君

埴谷義己

どうした、椎? 俺なら起きているが

起きて、ギコ君

 「起きて、ギコ君」と同じセリフを何度も繰り返すパソコン。表示された画像も合成ではない椎の実際の写真が一枚表示されているだけだ。その上、その写真は彼女の葬式に使われた写真である。恵司も人が悪い、と音耶は心の中で少し埴谷に同情する。だが、荒療治だとしても直さなければならないことに変わりは無いのだ。

埴谷義己

し、椎?

起きて、ギコ君

起きて、ギコ君

起きて、ギコ君

起きて、ギコ君

起きて、ギコ君

起きて、ギコ君

 空虚に何度も言葉を繰り返されると、音耶も精神的に堪える様で、そっと少し目を逸らした。きっとどこからか見ているであろう自身の兄はほくそ笑んでいるだろうな、と埴谷に気付かれないように舌打ちをして。

埴谷義己

す、駿河……俺はおかしいのか? 椎が同じ事しか繰り返さないんだ

駿河音耶

……もしかすれば、正常に戻っただけかもしれませんよ

 埴谷の問いかけに、目線を其方にやらぬまま答える。埴谷はパソコンをガタガタと揺らすが、パソコンは同じ言葉を繰り返すだけだ。埴谷の問いかけに答えることも無ければ、表情を変えることもない。当然だ、それはただのパソコンであり、椎ではない。

埴谷義己

…………

 ふと、埴谷が黙り込む。パソコンの音声も同時に止まる。音耶が埴谷に目を向けると、彼は首を垂れて小さく笑い出していた。

埴谷義己

……心のどこかでは、気付いていたさ。立ち直るには十分な時間が過ぎた

 寂しげな声色ではあるが、そう言った埴谷に音耶は内心驚いていた。発狂寸前だった椎の死後の様子からすれば、もう一度喚きだしてもおかしくないとまで思っていたのだ。だからこそ他に人のいない部屋を用意し、そこまで彼を連れてきていたというのに。

埴谷義己

何もかも忘れたわけ、ないじゃないか。椎との思い出だぞ? どんなものだって、忘れるわけないさ。例えそれがどんなに悲しくとも、もし死んだのが俺だったとすれば、彼女はきっと覚えていたよ

埴谷義己

俺みたいに目を逸らすこともなく、ただ真っ直ぐ前を見て、彼女は生きていたはずだ。だけど、今生きているのは俺だ。彼女じゃない。それなら、俺は……。

 埴谷は黙ってパソコンを操作し、立ち上がっていたプログラムを閉じる。アイコンも壁紙も、初期設定のまま変わっていないデスクトップが久々に姿を現す。それを見て、埴谷は小さく笑った。

埴谷義己

そう言えば、お前らに礼を言うのが遅れたな、駿河。兄の方にも改めて言うが、一先ず代わりに言っておいてくれ

駿河音耶

え? あ、はい

埴谷義己

どうした? 何をそんなに驚いている?

駿河音耶

……もう少し、取り乱されるかと

埴谷義己

ふん、もうそれなりの付き合いだから分かっていて欲しかったが?

駿河音耶

申し訳ありません、仰る通りです

 そう言って、二人が笑顔を交わした時、パソコンが勝手に何かのプログラムを立ち上げたのを音耶は見逃さなかった。勝手に立ち上がったのはまっさらなメモ帳。また恵司が何かをする気かと思った矢先、別のプログラムが立ち上がる。

ふぇっ……ふぇぇぇぇん! ごめんねギコ君!

 パソコンから聞こえる椎の泣き声。驚くのは埴谷である。彼は先程折角決別を済ませたばかりだというのに、パソコンからまた幻想の声が聞こえてくるのだから。

埴谷義己

……駿河、どういうことだ

駿河音耶

いえ……私は存じ上げませんが

あれっ? ……恵司さん! 嘘これじゃあギコ君の方と繋がっちゃってるの? 早く言ってよ!

 その声に、埴谷も音耶もすぐに察する。ああ、これは恵司の悪い悪戯だ、と。画面に目を向ければ、以前と同じ椎が画面の中で表情を目まぐるしく変えている。一緒に出されたメモ帳には、「めんごめんご!」と謝罪する気もさらさら感じ取れないような文章が表示されていた。

悪いな、持ってきたパソコンにマイク付いてないもんだから俺の方はチャットでお送りする。とりあえず、タイミングよく椎さんを戻せたみたいだな?

 勿論そんなことは椎と会話している以上嘘である。しかし、それを指摘したところで彼が肉声を届けてくれるわけもなく、音耶はそのまま黙っていた。

箱入椎

うう……ごめんねギコ君……。騙すようなことして……って、あんまり離さないほうが良いかな、私

いいさ。埴谷、お前ももう理解しただろ?

埴谷義己

十分に、な。それにしても、こんな強行策に出て来られるとは思わなかった

俺も賭けだったけどな。だからこうやって即座に戻せる準備をしてたんだよ

 恵司の声の雰囲気も表情も見えはしないが、それが本心で無い事など二人には簡単に分かっている。駿河恵司という男がただの善人で無い事など当たり前のことなのだ。

駿河音耶

お前……わかっていたのか

ああ、正直この結末は見えてたさ。何しろ、埴谷がパソコンを壊さずに持ってたんだからな。普通付けっぱにしてたらバッテリー切れるだろうが。パソコンだと理解してなきゃ充電もしないだろう

駿河音耶

それはお前がどうにかできると言ったんだろう

そだっけ? でも実際は俺は何もしてないわけで。まぁ、軽量化とか諸々してなんとかバッテリーの持ちはよくしてあるが、無くすのは無理だな。電化製品の限界だぞそれは

箱入椎

あ、私もよくわからないから説明して欲しいな! 恵司さん、わかってたなら何でこんなことしたの?

 椎の言葉に、恵司の言葉――しなわちメモ帳の言葉が途切れる。椎は恵司の目の前にもいるが、椎が何も言わないという事は打っていないだけではなく喋ってもいないのだろう。

ええい、説明が面倒だ。以上、解散!

 唐突に返ってきたかなり投げやりな言葉に、その場の一同が反感を露わにする。しかし、彼らが何と言おうと、恵司がそれに答えることは無かった。

駿河恵司

お疲れ、椎さん

箱入椎

酷いよ! どうしていろいろ教えてくれなかったの?

駿河恵司

だって俺の中で完結してりゃよかったし……解決したじゃん実際?

 すると、椎は不服そうに頬を膨らませる。その様子に恵司は「悪い悪い」と軽く謝罪し、仕方なさそうに口を開いた。

駿河恵司

白雪姫ってさ、キスで目覚めると思ってた?

箱入椎

えっ? う、うん

駿河恵司

あれ本当は死体を運んでる最中に棺が大きく揺れて、その時に毒りんごの欠片が姫の口から出たから起きるんだよ

箱入椎

そ、そうだったの? でも、それが何と関係あるのかな?

駿河恵司

ちょっとしたきっかけでよかったってこと。愛の力とか、そんなのも必要なくてさ

 椎が頭にハテナを浮かべるのも構わず、恵司は座っていた椅子の背もたれに体を預けると大きく伸びをして目を閉じた。

箱入椎

寝ないでよー! せめてあの時マイク使わないでメモ帳で話した理由だけでもー!

駿河恵司

あー、あれは俺の気分が乗らなかっただけ

 すると、椎がまた怒り出す。しかし、きっと恵司は本当のことを言った方が怒られると自覚していた。
 何しろ、マイクを使って話してしまったら悪戯が成功した子供よろしく終始笑ってしまっただろうから。

――EX 了

pagetop